Vorkriegszeit der Zerstörer

I. - 重戦闘機構想と開発指示

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、各国の用兵者達は重戦闘機という机上の理論による産物に対し大きな関心を寄せた。重戦闘機とは爆撃機に随伴して護衛を行なう為の機種であり、敵地侵入後に味方爆撃機隊へ襲いかかる敵の邀撃戦闘機を撃墜もしくは破壊する事がこの種の機体の目的であった。よって、この種の機には長い航続距離と強力な火器、優れた高速性能が要求された。この為、機体は前方に対する機載銃は当然として後方への銃座も求められ、複座が理想とされた。加えて長距離飛行の為に燃料槽は大型化し、武装と兵員及び燃料の重量はそれまでの戦闘機より格段に増加した。これら重量の増加にもかかわらず高い運動性を求められていたので、発動機は複数を使用する必要性が発生し双発機となった。

各国で技術者達はこの問題にどう対処するか頭を悩ませたが、ドイツでは他の国と比べて大きく異なる点があった。それは、帝国航空省大臣(Reichsminister der Luftfahrt)であるヘルマン ゲーリング名誉大将(Char. als Gen.d.Inf. Hermann Göring)がこの構想を強く支持したという事である。これによりドイツでの重戦闘機開発の重要度は高くなり再軍備前の34年秋に重戦闘機の開発指示が下された。
この指示は Kampf-Zerstörer(爆撃駆逐機)計画と称され AGO、ドルニエ(Dornier)、フォッケ=ヴュルフ(Focke-Wulf)、ハインケル(Heinkel)、ヘンシェル(Henschel)、ゴータ(Gotha)、BFW が計画の提示を行なった。この内、フォッケ=ヴュルフ、ヘンシェル、BFW の三社の案で競作が決定し、それぞれ Fw57、Hs124、Bf110 の形式番号が与えられた。しかし、これらの機が初飛行する以前の35年春の時点で RLM (帝国航空省)内部ではこの計画に対して懐疑的な声が上がり、飛行試験を行なった Fw57、Hs124 は多くが予想した通り満足の得られぬ結果を残した。この為にフォッケ=ヴュルフでは計画を中止し、ヘンシェルでは Schnellbomber(高速爆撃機)計画である Hs127 の開発へ移行した。その一方で速度性能を追求して設計された Bf110 は試作1号機が36年5月12日に初飛行し、試作2号機が無武装ではあるものの試験飛行で時速509km を記録した。これは前年に完成した Bf109V1(発動機はロールスロイス ケストレル搭載)の最高速度である時速470km を凌駕していた。但し、この一連の試験に於いて既に運動性能の不足が指摘されていた事実を見逃してはならないだろう。結局、競作機の脱落や Bf110 の高速性能と先行量産型で予定された 5 門の機銃は RLM の興味を惹き正式採用が決定した。

II. - 部隊設立

戦闘機部隊として二番目に設立されたダム航空兵大隊は、その編成当初から戦術面での研究を担当した。ここでは空中戦と邀撃に関するものが主体であり、重戦闘機の用法についても課題の一つとして扱われた。但し、第 I 章で述べたようにこの時期には RLM 内で重戦闘機を疑問視する関係者も存在しており、大隊の装備が He51 のみでもあったので軽戦闘機と重戦闘機の区分も明確ではなかった。この境界への線引きは Bf109 と Bf110 の採用が影響し、ユーターボーク=ダムでの重戦闘機研究も RLM に於ける Bf110 の実用への具体化から少しずつ熱を帯びてくるのであった。
II./ J.G.132 と改称されたダム航空兵大隊には、部隊の性質上、一早く新鋭機が配備される状況にあり Bf109B-1 も同様に当大隊から就役が開始された。この機の配備が37年2月から開始されたのに伴い、大隊では重戦闘機戦術の考案を他部隊に委ねざるを得なくなった。この任務を引き継いだのは、オスカル ディノルト(Oskar Dinort)大尉が指揮を執る II.(schwere Jagd)/ L.G.Greifswald(グライフスヴァルト教導航空団第 II 重戦闘大隊)であり、これは依然として量産型駆逐機が完成していない37年3月15日の事であった。この大隊は III./ J.G.134 から 「細胞分裂」 したものであり、重戦闘機の戦術のみならず機体の各種装備や運用、人員の編制等も含めた調査や開発を担当した。当初、部隊は Ar68 の後に Bf109 を運用していたが、38年7月になって漸く Bf110B-1 の領収を開始するに至った。
II.(s.J.)/ L.G.Greifswald にて重戦闘機の運用面に対する大きな問題点が浮き彫りにはならなかった事から、RLM は38年11月1日の部隊名再指定の折に重戦闘機部隊の兵種番号へ “4” を与えて存在を明確にさせた。つまり、全ての重戦闘隊は既存の部隊をそのまま改称しただけで、操縦士や地上員は軽戦闘隊(以前の戦闘隊)の戦力を間引いた形となり、後にこれら軽戦闘隊の上層部から不満を買う結果を招いた。
以下に、38年11月1日に於ける重戦闘隊への改称の一覧を掲載する。

旧部隊名 新部隊名 部隊長 本部設営地
II.(s.J.)/ L.G.Greifswald I.(s.J.)/ L.G.1 アクセル フォン ブロンベルク大尉
(Hptm. Axel von Blomberg)
バルト
(Barth)
II./ J.G.132 I./ J.G.141 ヨアヒム=フリードリヒ フート大尉
(Hptm. Joachim-Friedrich Huth)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
III./ J.G.132 II./ J.G.141 工学博士 エルンスト ボルマン少佐
(Maj. Dr.-Ing. Ernst Bormann)
フュルステンヴァルデ
(Fürstenwalde)
Stab/ J.G.134 Stab/ J.G.142 クルト=ベルトラム フォン デーリング中佐
(Obstlt. Kurt-Bertram von Döring)
ドルトムント
(Dortmund)
I./ J.G.134 I./ J.G.142 ヘルマン フロムヘルツ少佐
(Maj. Hermann Frommherz)
ドルトムント
(Dortmund)
II./ J.G.134 II./ J.G.142 フリードリヒ フォルブラハト少佐
(Maj. Friedrich Vollbracht)
ヴァール
(Werl)
IV./ J.G.134 III./ J.G.142 ヨハン シャルク大尉
(Hptm. Johann Schalk)
リップシュタット
(Lippstadt)
III./ J.G.234 I./ J.G.143 ヴィルヘルム レッスマン大尉
(Hptm. Wilhelm Lessmann)
イレスハイム
(Illesheim)
III./ J.G.334 I./ J.G.144 ヴァルター シュミット=コステ大尉
(Hptm. Walter Schmidt-Coste)
ガープリンゲン
(Gablingen)

註: スペイン内戦にて実戦下での戦闘機の戦術が考案され、37年10月に創設された I.(le.J.)/ L.G.Greifswald でそれを反映するべく研究が開始されている点を考慮すれば、この時期に II./ J.G.132 はそれまで行なってきた戦術開発の任務を解かれたとするのが妥当のように思われる。これにより、当大隊は38年11月に重戦闘隊への指定を受けたものと考えられる。

これら戦闘部隊が38年11月1日に再編成を受けたのは、ズデーテンラントの割譲を受けても尚、領土欲の収まらないヒトラーによりほぼ戦争が不可避の状態に持ち込まれ、西部ではフランスからの防御が深刻化し、東部ではチェコスロヴァキアへの侵入が近い将来に起こり得ると想定されたからであろう。

III. - 駆逐機の配備

実戦部隊である戦闘航空団への Bf110B-1 の配備は RLM が Bf110B の生産数を 45機に留めた事で大幅に遅れる事となった。これは、当初搭載予定だったダイムラー ベンツ DB600 発動機の開発の遅れが影響し、替わりに搭載したユンカースの Jumo210 では予定された性能値が実現出来なかった事に起因していた。
最初にこれらの機を受領した I.(s.J.)/ L.G.1 では、このような理由から Bf110 の飛行特性や機体操作に対する習熟、整備面での調整に使用されたものと思われる。38年秋に Bf110 へ DB601 が供給される事が決定し、本来の性能を発揮できる見通しが立ち C 型として発注が出されていた事からも、B 型は暫定的要素が強かったのである。

このように C 型の完成を目前に控えて RLM は “駆逐機” に確実な感触を得、39年1月1日付で公式に Zerstörergeschwader(駆逐航空団)の名称を重戦闘隊に与えると共に、I.(s.J.)/ L.G.1 は I.(Z.)/ L.G.1 となった。

Bf110C-1 の引渡しは I.(Z.)/ L.G.1 から行なわれ、ようやく彼らが行なうべき Bf110 による戦術開発が開始された。これは39年1月下旬の事であったが、Bf109E も DB601 を必要とした為に生産数が伸びず、一般の駆逐航空団に対する手始めとして I.(Z.)/ L.G.1 の余剰機となった B 型を I./ Z.G.141 と II./ Z.G.141 へ配転させる決定を下した。僅かな数の B 型を二つの大隊に分配した事で、受領側の両大隊とも配下の三個中隊の内の一つのみを訓練中隊(Schulstaffel)とさせるのが精一杯であり、C-1 の駆逐航空団への配備開始は 39年8月になって漸く I./ Z.G.1(旧 I./ J.G.141)、I./ Z.G.76(旧 II./ J.G.141)の大隊本部と残る二個中隊へ行なわれるという状態であった。

IV. - 部隊改編

チェコスロヴァキアでの作戦を終え、航空諸隊は39年5月1日に再編を行なった。空軍集団(Luftwaffengruppe)は航空艦隊(Luftflotte)へと改編されていた事から、各駆逐機部隊も他の飛行部隊同様に100を四等分しそれぞれの航空艦隊に割り当てた振り分け番号を付与された。
これと同時に、ドイツ空軍創設前にソ連のリペック(Lipezk:モスクワの南南東400km - ソ連名 Lipetsk)で極秘裏に行なわれていた訓練に参加した経験を持ち、後にポーランド戦役で最多の戦果を挙げるヨハネス ゲンツェン(Johannes Gentzen)大尉が指揮を執る I./ J.G.231 も駆逐隊の指定を受けた。

旧部隊名 新部隊名 部隊長 本部設営地
I.(Z.)/ L.G.1 I.(Z.)/ L.G.1 ヴァルター グラープマン大尉
(Hptm. Walter Grabmann)
バルト
(Barth)
I./ J.G.231 I./ Z.G.2 ヨハネス ゲンツェン大尉
(Hptm. Johannes Gentzen)
ベルンブルク
(Bernburg)
I./ Z.G.141 I./ Z.G.1 ヨアヒム=フリードリヒ フート大尉
(Hptm. Joachim-Friedrich Huth)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
II./ Z.G.141 I./ Z.G.76 ギュンター ライネッケ大尉
(Hptm. Günther Reinecke)
オルミュッツ
(Olmütz)
Stab/ Z.G.142 Stab/ Z.G.26 クルト=ベルトラム フォン デーリング大佐
(Obst. Kurt-Bertram von Döring)
ドルトムント
(Dortmund)
I./ Z.G.142 I./ Z.G.26 カール カシュカ大尉
(Hptm. Karl Kaschka)
ドルトムント
(Dortmund)
II./ Z.G.142 II./ Z.G.26 フリードリヒ フォルブラハト少佐
(Maj. Friedrich Vollbracht)
ヴァール
(Werl)
III./ Z.G.142 III./ Z.G.26 ヨハン シャルク大尉
(Hptm. Johann Schalk)
リップシュタット
(Lippstadt)
I./ Z.G.143 I./ Z.G.52 ヴィルヘルム レッスマン大尉
(Hptm. Wilhelm Lessmann)
イレスハイム
(Illesheim)
I./ Z.G.144 II./ Z.G.76 ヴァルター シュミット=コステ大尉
(Hptm. Walter Schmidt-Coste)
ガープリンゲン
(Gablingen)

また5月15日には、ルドルフ シュトルテンホフ(Rudolf Stoltenhoff)少佐指揮の I./ J.G.54 がフュルステンヴァルデにて II./ Z.G.1 と改称され、同時に大隊長はヘルムート ライヒャルト(Hellmuth Reichardt)少佐へ交替となった。

V. - 戦前唯一の作戦行動

Bf110 に対して生産の遅れと製造数の少なさ故からスペイン内戦に於ける試用は実施されなかった。これについては、駆逐機支持の立場にあったゲーリングの影響が及んでいる可能性もある。ここでは、駆逐機の戦前に於ける作戦行動への参加について述べたいが、結局のところチェコ進駐のみであるので IV 章と前後してしまうことになる。この点、注意して頂きたい。

39年3月のチェコ進駐を控え、駆逐隊としては北方から II./ Z.G.141 が睨みを利かせていた。この部隊は、ボルマン少佐が指揮を執っていた38年11月にフュルステンヴァルデからズデーテンラントのパルドゥビッツ(Pardubitz :チェコ名 Pardubice)へと移動し、その後にライネッケ大尉が後任の大隊長となってから Bf110 への転換訓練を実施していた。尚、チェコ南方に対して構えていたのはガープリンゲンに駐屯する Bf109D 装備の I./ Z.G.144 であった。チェコがベーメン及びメーレン帝国保護領としてドイツの下に置かれてから II./ Z.G.141 はメーレン(モラヴィア)のオルミュッツへと移動を命じられた。この移動の日付は判然としないが恐らく I./ J.G.331 が同地から撤退した39年4月21日に前後するものと思われる。

これより後はポーランド侵攻に対する準備とそれによって起き得るであろう西側諸国からの攻撃への対策に軍部は奔走した。殊にルール地方に駐留していた Z.G.26 が三個大隊編制であった点は注目に値する。当時、戦闘航空団でさえ三個大隊編制の部隊は存在しなかったからである。結局、ドイツ空軍駆逐隊は一個航空団本部と十個大隊の戦力で第二次世界大戦に臨んだ。但し、彼らの装備といえば僅か三個大隊が Bf110 を受領できたのみであり、他の部隊は主に Bf109D を使用するという不本意なものであった。

Text: © 2002-2006, Fuß


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