Vorkriegszeit der Nachtjäger

I. - 冷遇された時期

第一次世界大戦でのドイツ軍飛行船による夜間空襲を皮切りに、この種の攻撃と防御に対する研究が各国で始まった。当時、夜間攻撃ではドイツが、夜間邀撃の面ではイギリスが他国を先んじていた。
ドイツでは夜間空襲に際しては高射砲隊が探照燈を装備する照空隊と連携して防御を行なう事を主体に考えられおり、高射砲の開発や用兵術の研鑚には心血が注がれた。しかし、より一層の防衛力の必要性から夜間戦闘機による邀撃が求められるようになり、18年にドイツ軍では夜間戦闘中隊が設立されたものの戦争の終結までに目立った戦果を挙げる事は無かった。

結局、35年3月1日の空軍設立から第二次世界大戦開戦に至る平時のドイツ軍の内部で夜間戦闘機のみによる航空団は編成されなかった。その最大の理由として、総統であるヒトラーが防衛行為自体を認めなかった点が挙げられる。彼にとっての航空機とは 「攻める」 為のものであり、 「守る」 為の兵器ではなかったのである。また、新規部隊の設立が頻繁に続く空軍内では通常の戦闘機操縦士の数も不足しており、この中より計器飛行可能な熟練航空兵を抽出、もしくは訓練を施す事は困難であった。これに加え、金属製となり速度や上昇性能等が向上した航空機に対し、第一次世界大戦当時と比較して戦術面で変化がない夜間戦闘機による邀撃の有効性について RLM は大きな期待を持てなかったと考えられる。よって夜間防空は、高射砲隊が大きな権限を握っていた。

II. - 研究部隊の発足

第 I 章でも述べたように、戦前にはヒトラーのみならず多くの RLM や空軍幹部でさえも夜間戦闘隊の必要性を感じていなかった。ドイツ空軍で夜間戦闘機に興味を示した最も高位の人物は、急降下爆撃の信奉者であったエルンスト ウーデット(Ernst Udet)中佐であり、大佐に昇進し戦闘及び急降下爆撃航空兵兵監の任に就いていた彼の後押しを得て、36年5月に初の非公式な夜間戦闘機部隊が形成された。これには、恐らくラインラント進駐の時期にベルリン周辺で戦闘機部隊が不在だった事とも関連性があるように思われる。尤も、人員及び機材の関係からそれは僅か数機から成る夜間戦闘機編隊であり、彼らは戦術研究を行なっていたユーターボーク=ダムのダム航空兵大隊内部で夜間戦闘に際しての効果的な戦術の考案を行なうと共に、オーストリア進駐に於いてベルリンの夜間防空に従事した。当編隊は、オーストリア併合から程なくして夜間任務を解かれ、以前の昼間活動の任務へと戻された。
正式な夜間戦闘機部隊は、ズデーテンラントに対する作戦を控えた38年9月にデーベリッツで中隊として編成される事となった。この Versuchsnachtstaffel/ J.G.132 (第132戦闘航空団試験夜間中隊)には中隊長にリペック(Lipezk)での教官経験も持つアルベルト ブルーメンザート(Albert Blumensaat)中尉を迎えたが、この中隊もまたズデーテンラント進駐の後に廃止されるに至った。しかし、チェコへの侵攻を控えて39年2月1日に再びこの中隊はブルーメンザート中尉の下で 10.(N.)/ J.G.131 として編成された。結局、チェコへの進駐の後もポーランドへの侵攻が予定されていた為に同中隊は存続を許され、39年5月1日には 10.(N.)/ J.G.2 と部隊名の再指定を受け細々と活動を続けた。尚、この風変わりな中隊番号は当時、航空団が九個中隊による三個大隊での構成を前提に編成が行なわれていた為に夜間戦闘機中隊が航空団内部で独立中隊の扱いを受けていた事を示している。
夜間戦闘機部隊では Ar68 で戦術の研究を行なったが、模擬空戦で判明したのは第一次世界大戦での夜間戦闘機操縦士達が経験したように接敵すらも至難の業であるという事実であった。後に Jumo210 搭載型の Bf109 に移行してからは、その高速性能との引き換えとして今度は着陸の難しさに悩まされるようになった。結局、この種の部隊は昼夜を問わぬ本土の防空任務を担当した。

III. - ポーランドへの宣戦布告を前に

チェコへの進駐を終え、ポーランドへの侵攻が具体化されると共に夜間戦闘機中隊の増設が検討された。その要因としては総体的に軍事力の弱かったオーストリア、戦車に特化したチェコスロヴァキアに比べ、ポーランドが輸入に頼らず独自の機体を開発して航空戦力の強化を図っており、ベルリン空襲や飛び地のオストプロイセン(Ostpreußen)包囲が危惧された点が挙げられるが、部隊数を増加させた直接の原因はイギリスが3月31日にポーランドに対して有事の際はイギリスとフランスが援助を行なうと保障した事、つまりはルールや北海沿岸部への西部諸国からの空襲に備えたものと考えられる。ドイツ本土防空能力の強化は、今や重大な国防軍の課題となったのである。
そのような中、夜間戦闘中隊は独立した中隊として新しく6月1日にグライフスヴァルト(Greifswald)でヨハネス シュタインホフ(Johannes Steinhoff)中尉指揮の 11.(N.J.)/ L.G.2 が、続く39年7月15日にマンハイム=ザントホーフェン(Mannheim-Sandhofen)とベープリンゲン(Böblingen)でそれぞれ、エルンスト ベーニック(Ernst Boenigk)中尉指揮の 10.(N.)/ J.G.72 とアオグスト=ヴィルヘルム シューマン(August-Wilhelm Schumann)中尉指揮の 11.(N.)/ J.G.72 の設立が行なわれた。
因みに、L.G.2 の夜間戦闘中隊が第11中隊となったのは、既に第10中隊が海上中隊として活動していた為であり、J.G.72 では航空団本部も大隊本部も存在せず、これら二個の独立中隊のみが編成され、一方の中隊長であるシューマン中尉は既にスペイン内戦で4機撃墜の戦績を持っていた。
最終的に、9月1日の開戦当日、11.(N.)/ J.G.72 が 5./ J.G.52(昼間戦闘隊)へ、11.(N.J.)/ L.G.2 が 10.(N.)/ J.G.26 へとなった。しかし、これらの部隊名称の変更命令がこの日の何時に発効となったのか分からない為、ポーランドへ宣戦布告した 0545時(ドイツ時間)に部隊名がどの様になっていたかは、ここでは明言する事が出来ない。下では39年8月1日時点での夜間戦闘中隊の一覧を掲げる。

中隊名 中隊長 飛行場
10.(N.)/ J.G.2 アルベルト ブルーメンザート大尉
(Hptm. Albert Blumensaat)
デーベリッツ
(Döberitz)
10.(N.)/ J.G.72 エルンスト ベーニック中尉
(Oblt. Ernst Boenigk)
マンハイム=ザントホーフェン
(Mannheim-Sandhofen)
11.(N.)/ J.G.72 アオグスト=ヴィルヘルム シューマン中尉
(Oblt. August-Wilhelm Schumann)
ベープリンゲン
(Böblingen)
11.(N.J.)/ L.G.2 ヨハネス シュタインホフ中尉
(Oblt. Johannes Steinhoff)
グライフスヴァルト
(Greifswald)

註: この時点で 10.(N.)/ J.G.72 の中隊長は、元オーストリア陸軍の航空兵であったエルヴィン バシラ(Erwin Bascilla)大尉であった可能性もある。ベーニック中尉とバシラ大尉の間でいつ頃、部隊引渡しが行なわれたかは残念ながらはっきりとしない。

Text: © 2003-2005, Fuß


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