Vorkriegszeit der Nachtjäger
I. - 冷遇された時期
第一次世界大戦でのドイツ軍飛行船による夜間空襲を皮切りに、この種の攻撃と防御に対する研究が各国で始まった。当時、夜間攻撃ではドイツが、夜間邀撃の面ではイギリスが他国を先んじていた。II. - 研究部隊の発足
第 I 章でも述べたように、戦前にはヒトラーのみならず多くの RLM や空軍幹部でさえも夜間戦闘隊の必要性を感じていなかった。ドイツ空軍で夜間戦闘機に興味を示した最も高位の人物は、急降下爆撃の信奉者であったエルンスト ウーデット(Ernst Udet)中佐であり、大佐に昇進し戦闘及び急降下爆撃航空兵兵監の任に就いていた彼の後押しを得て、36年5月に初の非公式な夜間戦闘機部隊が形成された。これには、恐らくラインラント進駐の時期にベルリン周辺で戦闘機部隊が不在だった事とも関連性があるように思われる。尤も、人員及び機材の関係からそれは僅か数機から成る夜間戦闘機編隊であり、彼らは戦術研究を行なっていたユーターボーク=ダムのダム航空兵大隊内部で夜間戦闘に際しての効果的な戦術の考案を行なうと共に、オーストリア進駐に於いてベルリンの夜間防空に従事した。当編隊は、オーストリア併合から程なくして夜間任務を解かれ、以前の昼間活動の任務へと戻された。III. - ポーランドへの宣戦布告を前に
チェコへの進駐を終え、ポーランドへの侵攻が具体化されると共に夜間戦闘機中隊の増設が検討された。その要因としては総体的に軍事力の弱かったオーストリア、戦車に特化したチェコスロヴァキアに比べ、ポーランドが輸入に頼らず独自の機体を開発して航空戦力の強化を図っており、ベルリン空襲や飛び地のオストプロイセン(Ostpreußen)包囲が危惧された点が挙げられるが、部隊数を増加させた直接の原因はイギリスが3月31日にポーランドに対して有事の際はイギリスとフランスが援助を行なうと保障した事、つまりはルールや北海沿岸部への西部諸国からの空襲に備えたものと考えられる。ドイツ本土防空能力の強化は、今や重大な国防軍の課題となったのである。
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註: この時点で 10.(N.)/ J.G.72 の中隊長は、元オーストリア陸軍の航空兵であったエルヴィン バシラ(Erwin Bascilla)大尉であった可能性もある。ベーニック中尉とバシラ大尉の間でいつ頃、部隊引渡しが行なわれたかは残念ながらはっきりとしない。
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