Der Spanische Bürgerkrieg (Guerra Civil Española)
I. - 内戦までの情勢
19世紀に幾度もの敗退を喫し次第に領土が縮小していったスペインでは、1898年の米西戦争敗退によって遂に植民地はモロッコのみとなり国民の間では大きな失望の声が挙がっていた。そのような中でモロッコの原住民が1909年に反乱を起こした時、最後の植民地を維持する為にスペイン政府は侵攻を開始しここに火蓋は切って落とされた。しかし、これによってスペインは他の戦争に介入する戦力がなくなり14年からの第一次世界大戦へは中立とせざるを得なくなった。モロッコ戦争は長期化しフランス軍の協力を得て1927年7月11日に漸く勝利したが、スペイン国内ではモロッコ戦争開始直後より反戦運動が起こりはじめ、第一次世界大戦からの好景気によるインフレへの抗議といった労働者の反政府運動も続発しており決して穏やかなものではなかった。戦争が終結しても、各国を混乱させた1929年の世界恐慌による影響を受けて30年1月28日に独裁者ミゲル プリモ デ リベーラ(Miguel Primo de Rivera)首相が辞任に追いやられた結果、共和主義者の勢力が増大して31年4月12日の共和制支持政党勝利へと結びつき、4月14日にアルフォンソ十三世(Alfonso XIII)はフランスへと亡命を行なった。この王制の廃止に伴って、4月15日にニセト アルカラ サモーラ(Niceto Alcalá Zamora)を首相とする第二共和制(第一は1873〜1875年)政府が誕生するのである。
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II. - 内戦の概要
まず最初に内戦以前のフランシスコ フランコ(Francisco Franco)の軍歴を簡単に触れておきたい。フランコはモロッコ戦争中に将官となり、ここでの功績から28年にサラゴサ(Zaragoza)総合士官学校長へ補職されたが、後に首相となるアサーニャ国防大臣が31年5月16日に発表した軍縮計画に反発、7月のサラゴサ総合士官学校閉校と同時に左遷された。右派政権であったレルー内閣の成立により、34年10月5日にアストリアス(Asturias)地方で労働者による反乱が発生し、政府から10月7日に鎮圧要請を受け、その翌日に彼はアストリアスへ進撃し10月18日にはこの任務を完遂させた。これにはアサーニャ元首相の逮捕も含まれ、この功績によってフランコはモロッコ方面軍総司令官、35年5月17日には陸軍参謀長へと返り咲いた。しかし、36年2月16日の総選挙の影響を受けてフランコはまたもカナリア諸島方面警備司令官へと左遷されてしまう。彼は政権の移り変わりと共に、軍内部での地位も大きく翻弄されたのだった。(作業中)
III. - ドイツ軍の参入
スペインへ送られた最初の戦闘機操縦士は僅か6名であった。彼らは36年7月にハンブルク(Hamburg)を出港しカジス(Cádiz)へ到着した後、8月6日からセビリア=タブラダ(Sevilla-Tablada)で国家主義軍の一戦闘中隊として、クラフト エバーハルト(Kraft Eberhardt)中尉を指揮官に8月12日より飛行を開始、8月25日に共和主義軍機との交戦で中隊長とハンネス トラオトロフト(Hannes Trautloft)中尉が一機ずつ戦果を挙げ初戦果を飾った。8月30日、トラオトロフト中尉は空戦中に被弾し機外脱出する事態に遭遇、これはドイツ側の初の損失機であり彼は不名誉な記録もまた保持する事となった。
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IV. - 新しい流れ
前章で述べたように同盟国イタリアの CR.32 や対戦国ソ連の I-15 と比較すると He51 の性能は劣っていたが、総体的に見ればこの事はドイツにとって良い方向に働いた。何故なら、ドイツが Bf109 へ装備を更新しようとしたのに対して、ソ連はその後の長きに亘って、I-15 や同世代の I-16 を第一線に置き続けたからである。一方、不運だったのは CR.32 が格闘戦に於いて極めて秀でた 「複葉戦闘機」 に仕上がった為、イタリアが第二次大戦の開始に至っても、第一次大戦同様の 「複葉機」 と 「格闘戦」 に固執し続けた事であった。(作業中)
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