日本迄の道程

大海指第二七三号に基づき、第六艦隊第八潜水戦隊直轄の潜水艦二隻が遣独任務を与えられた。


先発の伊三四は昭和18年10月13日に呉を出港し、10月22日にはシンガポール(Singapore)へと入港、小島秀雄少将(海兵四四期、海大甲二八期)、無着仙明中佐(海兵五一期、海大甲三二期)、三菱重工業の藁谷武、蒲生ク信両技師を下ろし、ドイツ宛て天然資源を搭載すると11月11日に出港したが、11月13日にペナン(Penang)を目前にして英潜水艦 トーラス(HMS Taurus)が放った魚雷六本の内、一本が命中し沈没。派遣は伊二九のみで行われる事となった。
11月5日に呉を出港していた伊二九も11月14日にシンガポールに寄港。ドイツ宛ての天然資源200t余りを積載して12月16日に出撃した。ペナン島の周囲は敵潜の出没する虞があり、伊二九はマラッカ海峡ではなくスンダ海峡を通過するものとされた。その後、2月12日に大西洋上でハンス=ヴェルナー・オファーマン中尉(Oblt.z.S. Hans-Werner Offermann)が艦長を務める U518 との合流に成功。3月9日にはビスケー湾に達し、10日午後にドイツ海軍の艦艇四隻が伊二九の護衛についた。夜には独第一駆逐航空団の Ju88C 戦闘機八機が出撃し上空掩護を実施、飛来した英第一五七飛行中隊のモスキート戦闘爆撃機四機と空戦が行なわれ、航空団長ロタール・フォン・ヤンソン中佐(Obstlt. Lothar von Janson)が戦死した。独空軍設立時よりの古参航空兵であり、スペイン内戦にて初陣を飾っていたヤンソン中佐は、戦死により大佐へ進級すると共に日本から勲三等瑞宝章の追贈を受けた。
伊二九は昭和19年3月11日に無事フランスのロリアン(Lorient)への入港を果たした。その後、艦長木梨中佐はベルリンにて二級鉄十字章の授与を受けている。

日独技術交換協定に基づき、日本側は酸素魚雷等の資料と引き換えに、Me163B "Komet"及びMe262A "Schwalbe"(と、恐らく Fi103)等の資料を得た。尚、Me163Bに関しては、2000万ライヒスマルクで発動機を含む機体のライセンスを購入している。
Me163の資料は全く同じ物が二組用意され、呂号第五〇一潜水艦(旧艦名 U1224:ドイツから2月に無償譲渡)と伊二九に一組ずつ積み込まれた。
呂五〇一は第八潜水戦隊に編入され、「サツキ二号」と仮称して乘田貞敏少佐の下、3月30日にキール(Kiel)を出港したが、5月11日以降消息不明となり、8月26日に亡失認定を受けた(米軍による戦後の調査で、アフリカ西岸ベルデ岬諸島(Cape Verde Islands)附近に於ける米駆逐艦フランシス M. ロビンソン(U.S.S. Francis M. Robinson, DE-220)による5月13日の攻撃で沈没したものとされた)。
一方の伊二九は4月16日にロリアンを出港、7月14日にシンガポールへ寄港すると便乗者18名をこの地で下ろした。多数の資料を積載した同艦は7月22日にシンガポールを出港したが、7月26日にバタン島(Batan Island)沖バリンタン海峡(Balintang Channel)で米潜水艦ソーフィッシュ(U.S.S. Sawfish, SS-276)の雷撃を受け沈没した。

独ソ戦の開始後、終戦までの間に日本からドイツへ派遣された潜水艦は五隻を数え、三隻がロリアンへの到達に成功した。しかし、再び日本へと帰国できた艦は一隻にすぎない。また、ドイツからも四隻の潜水艦が遣わされたが、一隻が日本へ辿り着いたのみである。
このように、日独間の航海は極めて困難な任務となり、至極当然ではあるがドイツとの技術交換は多大なる犠牲を伴うものとなった。大海指第二七三号による遣独艦の将兵達の命は「秋水」の為だけに失われたのではないが、この機の開発に関連する死と見做すに足るものと思われる。

Me163に関する技術資料輸送での戦死者概要
姓名は個人情報保護の点を考慮し、士官の戦歿者のみを掲載した。
更に、予備士官の方々についても記載出来ませんでした。
これらについて何か御存知でしたら情報お寄せ頂ければ幸いです。

艦名 沈没日時、沈没場所 戦死者 生存者
伊三四 昭和18年11月13日、北緯5度17分、東経100度5分 乗組員84名、便乗者1名 乗組員13名
艦長
水雷長
航海長
砲術長
海軍中佐 入江達 (海兵五一期。戦死後、昭和18年11月13日附で海軍大佐進級)
海軍大尉 鯉淵不二夫 (海兵六五期。戦死後、昭和18年11月13日附で海軍少佐進級)
海軍大尉 中村豊 (海兵六八期。戦死後、昭和18年11月13日附で海軍少佐進級)
海軍中尉 園部義人 (海兵七〇期。戦死後、昭和18年11月13日附で海軍大尉進級)
便乗者 海軍技術少佐 有馬正雄 (東京帝大工学部船舶工学科。戦死後、昭和18年11月13日附で海軍技術中佐進級)
呂五〇一 昭和19年5月13日、北緯18度8分、西経33度13分 乗組員51名、便乗者4名 なし
艦長
水雷長
航海長
海軍少佐 乘田貞敏 (海兵五七期、海大三八期。戦死後、昭和19年8月26日附で海軍中佐進級)
海軍大尉 久保田芳光 (海兵六六期。戦死後、昭和19年8月26日附で海軍少佐進級)
海軍大尉 須永孝 (海兵六八期。戦死後、昭和19年8月26日附で海軍少佐進級)
便乗者
便乗者
便乗者
便乗者
海軍大佐 山田精二 (海機三一期。戦死後、昭和19年8月26日附で海軍少将進級)
海軍大佐 江見哲四郎 (海兵五〇期。戦死後、昭和19年8月26日附で海軍少将進級)
海軍技術大佐 根本雄一郎
海軍技術中佐 吉川春夫 (戦死後、昭和19年8月26日附で海軍技術大佐進級)
伊二九 昭和19年7月26日、北緯20度10分、東経121度55分 乗組員107名 乗組員1名
艦長
水雷長
航海長
砲術長
海軍中佐 木梨鷹一 (海兵五一期。戦死後、昭和19年7月26日附で海軍少将進級)
海軍大尉 岡田文夫 (海兵六七期。戦死後、昭和19年7月26日附で海軍少佐進級)
海軍大尉 大谷英夫 (海兵六九期。戦死後、昭和19年7月26日附で海軍少佐進級)
海軍中尉 水門稔 (海兵七一期、九期潜学生。戦死後、昭和19年7月26日附で海軍大尉進級)

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