Vorkriegszeit der Jäger

I. - 設立

昼間戦闘機部隊の祖と呼べるのは34年4月1日にベルリン(Berlin)近郊のデーベリッツ(Döberitz)でドイツ航空競技団体登録組合中部ドイツ宣伝チーム(Reklamestaffel Mitteldeutschland des Deutschen Luftsportverbandes e.V.)を中核として編成されたデーベリッツ航空兵大隊(Fliegergruppe Döberitz)である。これによって、陸軍の指揮下に置かれたデーベリッツ航空兵大隊には第一次大戦で28機の撃墜記録と、プー ル メリト(Pour le Mérite)叙勲の実績を持つ、当時41歳のロベルト リッター フォン グライム(Robert Ritter von Greim)少佐が大隊長(Gruppenkommandeur)に就任した。尚、"Ritter von" とは18年10月23日付で彼がバイエルン王国戦功マックス=ヨーゼフ騎士十字勲章(Ritterkreuz des königlich bayerischen Militär-Max-Joseph-Ordens)を受け、勲爵士となった時点より名乗りを許されたものである。
DLV(ドイツ航空競技団体登録組合)自体は民間組織と称していたが、その設立当初より将来の航空兵となるべく人員育成を行っており、これは19年に調印されたヴェルサイユ条約の規制(兵力の制限と軍用機の保有禁止)から逃れる為に RLM(帝国航空省)によって採られた苦肉の策であった。この事からデーベリッツ航空兵大隊の基盤となった中部ドイツ宣伝チームも所属組織の構成から機体の塗装、所属人員の服装に至るまで入念に民間の組織であるような偽装を施してはいたが、事実上は RLM の LA(航空司令局)配下にある参謀部(Führungsabteilung)に指揮された対外航空兵力集団(Gruppe Fremde Luftmächte)の一部として Ar64 による活動を行っていた。

総統であったアドルフ ヒトラー(Adolf Hitler)が35年2月26日に指示を出した事を受けて、3月1日にドイツ空軍(Luftwaffe)が公式に設立された為にデーベリッツ航空兵大隊を含む航空組織は空軍へと移管された。この後、戦没者慰霊日である同月16日に第三帝国の再軍備がヒトラーによって宣言されて、ヴェルサイユ条約は一部破棄となった。再軍備宣言では “空軍発足” も含まれており、ドイツでも空軍戦力を保持している事実が全世界へと公表された。
続いて、4月1日に RLM と空軍の内部で新しい組織が幾つか設立され、人事の面でも動きがあった。戦闘隊では第二の部隊として、デーベリッツから抽出した人員を基幹にダム航空兵大隊(Fliegergruppe Damm)を編成させており、俗に「細胞分裂」と呼ばれるこの手法でドイツ空軍は終戦まで部隊を編成し続けた。これら二つの航空兵大隊はこの後、新規部隊の基幹要員育成に携わり、戦闘隊内部で編成担任部隊としての働きも兼ねた重要な部隊となったのである。そして、時を同じくして LA 内に戦闘隊と急降下爆撃隊を統括監査する部署が組織され、この戦闘及び急降下爆撃航空兵兵監部(Inspektion der Jagd- und Sturzkampfflieger : 略称、Fl.In.3)の長たる兵監(Inspekteur)の座には、それまでデーベリッツ航空兵大隊長の任にあったグライム少佐が抜擢された。

Heinkel 51
"Heinkel Jagdeinsitzer des Richthofengeschwaders"
[ via RLM ]
デーベリッツ航空兵大隊の He51。乗機の塗色から「赤い男爵(Der rote Baron)」と呼ばれていたリヒトホーフェンに因み、伝統色(Traditionsfarbe)として機首を赤く塗装している。
胴体の番号標識制度と尾翼の国籍標識は、35年8月8日附で軍事用航空機を対象に LA 局より極秘扱で下令( 第8617/35 号)されたもの。

II. - 西側諸国への対処

ドイツの再軍備に対抗してイギリス、フランス、イタリアは共同戦線としてストレーザ戦線を張り、その動きを牽制していた。更に、フランスはソ連とも仏ソ相互援助条約を結んでドイツを封じようとした。当のドイツではラインラントの非武装地帯(ドイツ西部地域。フランス及びベネルクス三国との国境地域)を有する事で、西方よりも北方に対する対処が当初の問題となった。北方の脅威は北海沿岸を拠点とする海軍に大きく関わる問題であり、海軍の指揮下にあった戦闘機部隊といえば、34年10月と35年4月に編成された第1 及び 第2(戦闘機)飛行中隊(Fliegerstaffel (J.) 1 及び 2)の二個中隊がキール=ホルテナオ(Kiel-Holtenau)に駐留していた。
ヴェルサイユ条約の制限に違反している装甲艦 D(Panzerschiff D:後の戦艦シャルンホルスト)及び装甲艦 E(Panzerschiff E:後の戦艦グナイゼナオ)建造等のドイツ海軍戦力増強にイギリス政府は危機感を感じ、英独海軍協定を35年6月18日に締結。これによって、ドイツ政府はストレーザ戦線の弱体化とイギリスからの攻撃抑制に成功した。
キールを中心に展開するドイツ沿岸部の航空部隊は海上部隊等との連携の際、円滑な作戦行動を執る為に海軍 - ヘルマン ブルーフ(Hermann Bruch)海軍中佐 - の下で運用されていたが、RLM の幹部は全ての航空兵力を空軍の配下に置く事を強く要求した。結局、これらの部隊は35年10月1日に正式に空軍へと移管され、ブルーフ中佐は RLM へ異動(同時に空軍中佐に任官)とされた。しかし、海軍が保有していた戦闘隊は先述の二個中隊のみであり、これが大隊へ昇格するのは更に一年後の事であった。これは次に述べるラインラント進駐によって西側(フランス及びベネルクス諸国)に対する部隊の編成を急務とした事や英独海軍協定を結んでイギリスに対する脅威が薄れたものによると思われる。

フランスには、仏ソ相互援助条約締結が負の要因をもたらせた。つまり、25年にフランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ベルギー、ポーランド、チェコスロヴァキアが調印、翌26年に発効となったロカルノ条約(ラインラントの非武装を謳ったラインラント条約を含んでいた)をドイツ政府が36年3月7日に破棄し、ラインラントへ軍を進駐させた事への口実材料となってしまったのである。進駐によって、フランスとの間で緊張が高まったが、フランス側はイギリスと協調することが出来なかった為に、この進駐に対抗する事を見送った。これは、ストレーザ戦線の疲弊を意味している。因みに当時、フランスが東側諸国と結んでいた条約は以下の通り。
36年1月当時、戦闘機部隊として編成が完了していたのはベルリン直衛の二個大隊とドイツ沿岸部を防御する二個中隊のみであった為、ラインラント進駐後に同地方へ布陣させる大隊が必要となり、デーベリッツ航空兵大隊の一部とシュライスハイム航空兵大隊(学校)(Fliegergruppe (S.) Schleißheim)の卒業生から成る新部隊の編成が下令された。この大隊は2月24日にドイツ西部のヴェストファーレン(Westfalen)州へと移動し、その駐屯地からリップシュタット航空兵大隊(Fliegergruppe Lippstadt)と命名されていたが、新兵の多さ故に練度が低かった。また、余りにも長いフランスとの国境線は一個の航空兵大隊で担えないと判断され、3月になってデーベリッツとダム航空兵大隊も臨時にこの地区へと移動となった。進駐当日はこれら三個大隊が、フランスとの国境部のドイツ側上空を中隊単位で威嚇飛行したが、彼らの戦力は僅か八個中隊でありフランスへの誇示の為には一日に数回の飛行を行なわざるを得なかった。軍を進めるに当たって戦力が然程強力ではなかったのは陸空軍の他部隊も同様であり、進駐時にフランスからの抵抗を受ければ退却以外なす術のなかったドイツにとって、ラインラント進駐の成功は幸運以外の何物でもなかったと言える。

36年3月1日時点の対ラインラント部隊
部隊名 部隊長 飛行場
Stab Fliegergr.Döberitz クルト=ベルトラム フォン デーリング中佐
(Obstlt. Kurt-Bertram von Döring)
デーベリッツ
(Döberitz)
1./ Fliegergr.Döberitz 姓名不詳
(N.N.)
デーベリッツ
(Döberitz)
2./ Fliegergr.Döberitz 姓名不詳
(N.N.)
デーベリッツ
(Döberitz)
3./ Fliegergr.Döberitz 姓名不詳
(N.N.)
デーベリッツ
(Döberitz)
Stab Fliegergr.Damm 工学士 ヨハン ライテル少佐
(Maj. Dipl.-Ing. Johann Raithel)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
1./ Fliegergr.Damm カール=アオグスト フォン シェーネベック少佐
(Maj. Karl-August von Schönebeck)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
2./ Fliegergr.Damm テーオドーア オースターカンプ少佐
(Maj. Theodor Osterkamp)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
3./ Fliegergr.Damm ホルスト=ギュンター フォン コルナツキー大尉
(Hptm. Horst-Günther von Kornatzki)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
Stab Fliegergr.Lippstadt オスカル ディノルト大尉
(Hptm. Oskar Dinort)
リップシュタット
(Lippstadt)
1./ Fliegergr.Lippstadt ヨハネス ヤンケ大尉
(Hptm. Johannes Janke)
リップシュタット
(Lippstadt)
2./ Fliegergr.Lippstadt フリッツ シュライフ中尉
(Oblt. Fritz Schleif)
リップシュタット
(Lippstadt)

これらの対西側戦闘機部隊については、ドイツ軍の進駐後1ヶ月の間を置かずしてダム航空兵大隊から、ヴァール航空兵大隊(Fliegergruppe Werl)とドルトムント航空兵大隊(Fliegergruppe Dortmund)が「細胞分裂」によって派生して、ダムで第2中隊長だったオースターカンプ少佐がヴァールの大隊長に就任し、3月中にデーベリッツとダム航空兵大隊はベルリン方面へと引き返した。また、4月1日にはドルトムント航空兵戦隊(Fliegergeschwader Dortmund)を編成し、ドイツ西部戦闘機部隊の上部組織とさせる事でラインラントの守りを強固なものにした。

空軍戦闘機部隊として先述のドイツ沿岸部に於ける I./ J.G.136(第136戦闘航空団第 I 大隊)の編成(36年9月1日)に次ぐ戦力増強は37年3月15日の四個大隊の編成と一個の航空団本部の設立であったが、これら全てが西方の第 IV 航空集団傘下に布陣する部隊であったという事実を考慮すれば、当時のドイツでの西部諸国に対する警戒感の大きさや軍部が急速にラインラントを武装化した様子を垣間見る事が出来る。

III. - 戦闘航空団としての組織化

ラインラントへの進駐は国防軍への戦力増加をもたらせた。航空部隊についても同様であり、戦闘、爆撃、急降下爆撃の各部隊には36年4月1日に上部組織となる戦隊(Geschwader)八個が編成されると同時に、偵察航空兵や訓練生の為のものを含めて新規の航空兵大隊を数多く組織した。
これら航空部隊の部隊数増加の影響を受けて、6月1日には戦隊(当ページでは以降、航空団と記載)の呼称が駐留地名を冠するものから数字による部隊名の導入へと一新された。この時点で適用された3桁数字による部隊表示方法は、一目で部隊の性格を把握できるものであり、これらの数字は以下の事柄を示していた。

一桁目 = 航空集団(Luftkreis)内部での設立番号
二桁目 = 兵種
1 = 近距離偵察 (Nahaufklärung-)
2 = 遠距離偵察 (Fernaufklärung-)
3 = 軽装備戦闘 (leichtbewaffnet Jagd-)
4 = 重装備戦闘 (schwerbewaffnet Jagd-)
5 = 爆撃 及び 襲撃 (Kampf- und Schlacht-)
6 = 急降下爆撃 (Sturzkampf-)
7 = 輸送 (Transport-)
8 = 艦上 (Träger-)
9 = 艦載航空兵 (Bordflieger-)
0 = 沿岸航空兵 (Küstenflieger-)
三桁目 = 航空団を指揮する航空集団司令部(Luftkreiskommando) <司令部所在地>
1 = Luftkreiskommando I <ケーニヒスベルク(Königsberg)>
2 = Luftkreiskommando II <ベルリン(Berlin)>
3 = Luftkreiskommando III <ドレスデン(Dresden)>
4 = Luftkreiskommando IV <ミュンスター(Münster)>
5 = Luftkreiskommando V <ミュンヒェン(München)>
6 = Luftkreiskommando VI <キール(Kiel)>
7 = Luftkreiskommando VII <ブラオンシュヴァイク(Braunschweig)>

註:例えば、戦闘機を装備としていたデーベリッツ航空兵大隊は I./ J.G.132 の名を与えられた。つまり、132 とはベルリンの第 II 航空集団司令部指揮下に於ける軽装備戦闘部隊としての最初の航空団を意味している。

これにより書類等では部隊名は数字のみで判別する事が出来た。例えば、I./ J.G.132 ならば I./ 132 とする表記でも航空部隊であれば重複する部隊は存在しなかった。次に、改称時の新名称と部隊の状態を示す。

旧部隊名 新部隊名 部隊長 本部設営地
Fliegergeschw. Döberitz Stab/ J.G.132 工学士 ヨハン ライテル少佐
(Maj. Dipl.-Ing. Johann Raithel)
デーベリッツ
(Döberitz)
Fliegergr. Döberitz I./ J.G.132 カール フィーック少佐
(Maj. Karl Vieck)
デーベリッツ
(Döberitz)
Fliegergr. Damm II./ J.G.132 カール=アオグスト フォン シェーネベック少佐
(Maj. Karl-August von Schönebeck)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
Fliegergr. Bernburg I./ J.G.232 ブルーノ レールツァー大佐
(Obst. Bruno Loerzer)
ベルンブルク
(Bernburg)
Fliegergeschw. Dortmund Stab/ J.G.134 クルト=ベルトラム フォン デーリング中佐
(Obstlt. Kurt-Bertram von Döring)
ドルトムント
(Dortmund)
Fliegergr. Dortmund I./ J.G.134 ヨーゼフ カムフーバー少佐
(Maj. Josef Kammhuber)
ドルトムント
(Dortmund)
Fliegergr. Werl II./ J.G.134 テーオドーア オースターカンプ少佐
(Maj. Theodor Osterkamp)
ヴァール
(Werl)
Fliegergr. Lippstadt III./ J.G.134 オスカル ディノルト大尉
(Hptm. Oskar Dinort)
ケルン=ブルツヴァイラーホーフ
(Köln-Burzweilerhof)
Fliegersta.(J.) 1 1./ J.G.136 ヘルマン エーデルト大尉
(Hptm. Hermann Edert)
キール=ホルテナオ
(Kiel-Holtenau)
Fliegersta.(J.) 2 2./ J.G.136 マルティン メティヒ大尉
(Hptm. Martin Mettig)
イェファー
(Jever)

尚、第 II 、IV 章はこの時期と前後しているので、部隊名については注意して頂きたい。

IV. - 生活圏の拡大 ( 1 )

ヴェルサイユ条約では同盟国側に対する制裁としてのオーストリア=ハンガリー帝国の解体によって、チェコスロヴァキアが誕生した。また、ドイツ東部ではオストプロイセン(Ostpreußen)州の一部がリトアニアへ、ポーゼン(Posen)州やヴェストプロイセン(Westpreußen)州の大部分が割譲されポーランドとなった。ラインラント進駐の後、ドイツではこれら東部のアーリア系民族居住地域の奪回による 「生活圏(Lebensraum)」 の拡大が画策された。ここではラインラント進駐後に起こった、これらドイツ東部及び南部を含む東方への動きを見てみたい。

先ず、首都保護の観点から、ベルリン方面の戦闘機部隊を統括管理するデーベリッツ航空兵戦隊(Fliegergeschwader Döberitz)とその指揮下のベルンブルク航空兵大隊(Fliegergruppe Bernburg)が新しく組織された。これは36年4月1日の事で、西方の戦闘機装備による航空兵大隊を三個へ増強(第 II 章参照)するのと時期を同じくして実施され、ベルリンとラインラントの戦闘機部隊に対しそれぞれ航空団単位での行動を可能とさせた。しかし、38年11月の改正(第 VI 章参照)の時点に於いても戦闘航空団本部の設立は四個に過ぎなかった事から、必ずしも航空団本部が自身の大隊を指揮下に置く様には考えられていなかったようである。つまり、大隊は情勢に対し柔軟に行動する事を優先して考えられており、異なる航空団の下での活動も当初より予定されていたと推測されるべきであろう。これについては、各大隊を別の航空団の指揮下で運用する事例が大戦中にも少なからず見られたという事実がある。
スペイン内戦での同盟関係に大きく影響され、36年10月25日、ヒトラーはイタリア首相のベニト ムッソリーニ(Benito Mussolini)とベルリン=ローマ枢軸を結び、ドイツ南部からの危険を排除した。これによって、爾後、戦闘隊では次第に東方へ対する軍備を強めていった。即ち、37年4月にはオストプロイセンで I./ J.G.131 が、ドイツ南部で I./ J.G.135 が編成され、両部隊の編成作業も終盤を迎えた同月20日、今度は I./ J.G.232 が I./ J.G.137 と改称され第 VII 航空集団へと移管された。これらは、それぞれの地域で初の戦闘機部隊であった。
また、37年2月から II./ J.G.132 へ Bf109B-1 の配備が開始されたのは特筆に価する出来事であった。スペイン内戦に於いてドイツ空軍が一撃離脱戦術を確立し、他の列強国家より一歩先んじたのは、この機があればこそであったからである。

ヒトラーが領土奪回として最初の標的に選んだのはチェコスロヴァキアであり同時にオーストリアに対しても亦、ドイツの生活圏としてその手中に収める計画が立案された。43年までに遂行すべしとされたこの構想が、極めて一部のヒトラー腹心の側近に発表され 「ホスバッハの覚書(Hoßbach-Niederschrift)」 として記録されたのは37年11月5日の事である。
38年1月27日、国防大臣(Reichskriegsminister)のヴェルナー フォン ブロンベルク(Werner von Blomberg)陸軍元帥が不運な形での解任劇を迎えた後、2月4日にヒトラーがその座に就任すると軍部を掌握して独裁体制がより強まり、軍事面の編制にも変化が起こった。最大の変化は帝国国防省(RKM)が国防軍総司令部(OKW)となった点であり、空軍飛行部隊の組成で最大の変化として挙げられるのは航空集団を統合して空軍集団(Luftwaffengruppe)を形成した点であった。編制の変化は軍部の指揮中枢に集中して起こり戦闘隊を含めた実戦部隊には隊内の編制変更の通達は発せられず、航空集団は発展して廃止されたものの、空軍集団の下部組織として航空部隊を指揮した高等航空兵指揮官(Höherer Fliegerkommandeur)の番号とする事によって “部隊名制度” は三桁目の数字を変更することなく、そのまま継続して使用された。

以前の部隊名 38年2月4日以降の
部隊名
航空部隊に対する
指揮組織
Luftkreis 1 Lw.-Kdo.Ostpreußen
Luftkreis 2 Lw.-Gruppe 1 Höh.Fliegerkdr.2
Luftkreis 3 Lw.-Gruppe 1 Höh.Fliegerkdr.3
Luftkreis 4 Lw.-Gruppe 2 Höh.Fliegerkdr.4
Luftkreis 5 Lw.-Gruppe 3 Höh.Fliegerkdr.5
Luftkreis 6 Lw.-Kdo.See
Luftkreis 7 Lw.-Gruppe 2 Höh.Fliegerkdr.7

註: Luftkreis 及び Höherer Fliegerkommandeur の部隊番号は37年10月12日より、従来のローマ数字からアラビア数字へと変更されていた。

これらの部隊名を空軍集団の番号に変更させなかった理由として、指揮上での問題発生を抑止する為の効果が考えられる。というのもドイツにとっての大きな動きが翌3月に早速起っており、この改正を行った時点で、近く “その動き” が発生し得ると考えられていたからである。

この大きな動きは先のラインラントや後のチェコへの進駐と比べ、はるかに低い危険性のままで決着が付けられるとヒトラーは見ており、それこそがオーストリア併合であった。
以前よりオーストリア国内ではドイツ語圏という事もあり、NSDAP(国家社会主義ドイツ労働党)と深い繋がりをもつ国家社会主義者の一派が活発に活動しており、エンゲルベルト ドルフース(Engelbert Dollfuß)首相暗殺を代表例とした暴力行為を繰り返す彼らに対してオーストリア政府は厳重な取締りを行なっていた。このような隣国での “同胞達への冷遇” を解決するべく、ヒトラーは国防軍の指揮権を手中に収めた僅か八日後の2月12日にオーストリア首相、クルト フォン シュシュニク(Kurt von Schuschnigg)と会談の席を設け、ドイツ軍の侵攻を仄めかせながらオーストリアの国家社会主義党員をオーストリア内務大臣職に就かせる等の要求を承認させ、ドイツとの併合を求めた。
帰国後のシュシュニクは3月9日に、併合の是非をめぐる国民投票を同月13日に行なう旨の宣言をしたが、目前の11日にヒトラーから投票中止の通告を国民へ行うよう言い渡された。しかし、この中止の宣言が行われなかった事から翌12日、ドイツ軍はオーストリアに侵攻し、シュシュニクはヴィーン(Wien)にて秘密警察(Gestapo)の監視下に置かれ、2月18日よりオーストリア内務大臣の座にあったアルトゥール ザイス=インクヴァルト(Arthur Seyß-Inquart)が3月12日中に首相へ就任、一連の行動はこの “前内務大臣” からの要請によって起こされたと処理された。そして、13日、ザイス=インクヴァルトは大統領ヴィルヘルム ミクラス(Wilhelm Miklas)に併合の承認を進言したがミクラスはその職を辞任し、首相にその全権を委任した。これによりヒトラーとザイス=インクヴァルトの間で併合について合意が交わされ、当日の内に関連文書が発効された事によりオーストリア共和国は消滅し、ドイツの一部(オストマルク州:Ostmark)となった。

以上がオーストリア併合の政治的な動きのあらましではあるが、さて戦闘機部隊ではどのような動きがあったのであろうか?
オーストリアへの作戦に対して行動を指示されたのはフーゴ シュペルレ(Hugo Sperrle)大将の第3空軍集団であり、航空機諸隊を統括する第5高等航空兵指揮官ルートヴィヒ ヴォルフ(Ludwig Wolff)少将配下での戦闘機部隊は I./ J.G.135 のみであった。当時、この大隊は大隊本部と四個の中隊から構成されていたとする資料もあり、大隊内部の装備状況がどのようなものであったか不明ではあるものの、通常三個中隊で構成されるものと単純比較すれば強力に思える。この大隊での四個中隊への増強が、ヒトラーによる東方対外政策の発表前である37年7月1日に完了した事を考え合わせると、- オーストリアに侵攻する目的ではなく - 西部に対峙する戦闘大隊の多さに比べて、東部に対する大隊数が少なかった事を補うが故に四個中隊化されたと見るのが妥当であると思われる。そして、この大隊の中で三個の中隊がオーストリアへの作戦に参加し、これらの中隊の Ar68 は全て3月12日にオーストリア領内の各飛行場へと移動した。

38年3月13日時点の対オーストリア部隊
部隊名 部隊長 飛行場
Stab I./ J.G.135 マックス=ヨーゼフ イーベル少佐
(Maj. Max-Josef Ibel)
バート アイプリング
(Bad Aibling)
1./ J.G.135 ハンネス トラオトロフト中尉
(Oblt. Hannes Trautloft)
ヘールシング
(Hörsching)
2./ J.G.135 ゲオルク マイヤー中尉
(Oblt. Georg Meyer)
エンツァースドルフ
(Enzersdorf)
3./ J.G.135 ハンス=ハインリヒ ブルステリン中尉
(Oblt. Hans-Heinrich Brustellin)
ヴィーン=アスペルン
(Wien-Aspern)
4./ J.G.135 バート アイプリング
(Bad Aibling)

ここでオーストリア陸軍の航空戦力を述べると、ヴィーンに第1飛行連隊(Fliegerregiment 1)があり傘下には第 II 戦闘航空団(Jagdgeschwader II)と第 I 偵察航空団(Aufklärungsgeschwader I)を、グラーツ(Graz)には第 I 戦闘航空団、第 I 爆撃航空団(Bombengeschwader I)、及び教育航空団(Schulgeschwader)を保有する第2飛行連隊があり、これらが持ち得る全ての飛行部隊であった。また、注意すべき点としてオーストリア陸軍の “航空団” は、ローマ数字での表記からも察せられるようにドイツ空軍の “大隊” と同規模の戦力であった事が挙げられ、名前から受ける印象よりも実際の規模は小さかった。

結局、併合から一ヶ月も経たぬ4月1日にはヴィーン=アスペルンで I./ J.G.138 が編成された。この新しい大隊は Jagdgeschw.II の人員を母体に編成され、大隊長の座には Jagdgeschw.II 航空団長であったヴィルフリート フォン ミュラー=リーンツブルク(Wilfried von Müller-Rienzburg)大尉が就任した。第2中隊及び第3中隊は Jagdgeschw.II の隷下中隊をそれぞれ改称したものであり、第1中隊が大隊での唯一のドイツ人中隊となった。この中隊は以前の 3./ J.G.135 であり、ブルステリン中尉はそのまま中隊の指揮を続けるよう命ぜられた。
尚、Jagdgeschw.II の保有機であった CR.32bis は I./ J.G.138 へ移管され、4月中に I./ J.G.135 はオーストリアからバート アイプリングへと戻り、この地での活動に終止符を打った。
ドイツ軍にとって幸運だったのは、オーストリア軍将兵がアーリア人である事で配転に際して党の純血思想に束縛されず兵力を増員する事ができ、8月1日のオストマルク方面空軍司令部(Luftwaffenkommando Ostmark)設立によって、この地域での空軍部隊の総てがその配下に置かれた事である。

V. - 生活圏の拡大 ( 2 )

次なる矛先となったチェコスロヴァキアに対するドイツの動きもオーストリアの場合と共通する部分が多い。この為に V、VII 章でも戦闘機部隊の動きのみでなく政治的なやり取りも絡めて見ていきたい。

18年10月にチェコスロヴァキア共和国は建国されたが、その当初からこの国は大きな問題を抱えていた。対外的な問題としてハンガリー、ドイツ、ソ連の脅威に晒されており、殊に第一次大戦終了直後はハンガリーを警戒していた。これに対処すべく、20年から21年にかけてチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、及びルーマニアの間で小協商と呼ばれる同盟関係を締結し、チェコの工業力を生かして仏捷相互援助条約 (第 II 章参照)締結後はフランス指導の下、ズデーテンラント(チェコ側のドイツ国境部)の要塞化と陸軍兵力の強化を図るようになった。そして、国内での大きな問題は工業地域のチェコと農業地域のスロヴァキアの経済格差が大きかった点である。
この国は、30年代の東欧では珍しく独裁政権を樹立する事がなかった。そこでヒトラーは、この東西格差に着目して農業国スロヴァキアの独立を支援した。これはオーストリア併合での前段階で、オーストリア国内に国家社会主義を芽吹かせた事に相当する。つまり、国内に親ドイツ派を形成させる目的があった。

ヒトラーの関心は当然ながらスロヴァキアの独立ではなくチェコの工業力にあり、その中枢でもあったボヘミア(Böhmen:ベーメン)は大きな魅力であった。ドイツ西部のルール地方(Ruhrgebiet)に工業生産を依存していたドイツにとって、地理的に対極となるボヘミアは東部に対する軍需生産要地として限りなく無傷に近い状態で占拠しなければならなかった。また、チェコスロヴァキアを支配下に置けば、ドイツがポーランドに対してより有利に作戦の展開が行なえる事を意味した。

このチェコの占領に先立ち、ズデーテンラントにチェコ人と比べ経済的に恵まれていないドイツ系移民が多かった事は、この地をチェコから搾取する為の理由として好都合と考えられた。これにより、ヒトラーはズデーテンラントの分離をチェコスロヴァキア大統領のエドヴァルド ベネシュ(Edvard Benes)に要求するよう、チェコのドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ党(SdP)に指示した。38年9月5日にベネシュが SdP による自治を認めた事に伴い、ヒトラーはズデーテンラントの民族自決権の支援を行うと12日に党大会で宣言し、これに対応する形でイギリス首相のアーサー=ネヴィル チェンバレン(Arthur-Neville Chamberlain)は18日にベネシュと割譲について会談した。しかし、マジノ線の小型版とも言えるズデーテン要塞が構築されたこの地をベネシュが割譲する事を認めなかった為に、ドイツ側は22日に再度これを要求、それに呼応してチェコ政府が24日に総動員令を発動して緊迫した状況を迎えるに至った。
スペイン内戦で南の軍事大国イタリアはドイツと相互に信頼関係を築いていた事から、何としても紛争の回避を願うフランス、イギリスの両政府は、この問題を解決するべくイタリアのムッソリーニに仲介を依頼した。これにより、チェンバレン、フランス首相のエドゥワール ダラディエ(Edouard Daladier)、ムッソリーニ、ヒトラーの四カ国首脳が、29日にミュンヒェンで国際会議を開催し、今後、ドイツが領土要求をしない事を条件として、イギリス、フランスがズデーテンラントの即時割譲を認めた。ミュンヒェン会談には、当事国であるチェコスロヴァキア政府や、その隣国であるソ連の政府関係者が招かれなかった。殊にソ連では、このことからイギリス、フランスへの不信感が高まり、後の独ソ不可侵条約の締結へと発展する。結局、ドイツ軍はこのミュンヒェン協定の採択によって、10月1日に何の問題も抱えぬままズデーテンラントへ進駐し、同月3日には併合を行なったのであった。
結局、ベネシュは大統領職を10月5日に辞し、ロンドンへと亡命した。

当時、大量の要員補充を受けた戦闘機部隊は、ベルリン周辺に二個、西部に三個、中部に一個、そして東部へ一個と計七個大隊を38年7月1日に編成し、以前と単純比較すれば約 1.5倍という格段に強化された大隊数を保持するに至っていた。この人員は空軍設立公表後に入隊した飛行兵が訓練終了によって第一線へ配属可能となった事を意味しているが、政治情勢とあわせて見れば空軍にとって正に好機であったといえよう。
但し、オーストリアへの進駐と大きく異なるものとしてチェコが陸軍大国であり、戦車の開発と配備の面で非常に優れていた点とズデーテン要塞の存在が挙げられ、これに対処する為に空軍では襲撃航空兵大隊(Schlachtfliegergruppe)と呼ばれる対地攻撃部隊が8月1日に編成された。これらの部隊の編成に尽力したのはアドルフ ガランド(Adolf Galland)中尉であり、スペイン内戦での実績を買われてのものであった。
以下に、ミュンヒェン会談当日の対東部戦闘機部隊の配置状況を掲げる。

38年9月29日時点の北方布陣の対ズデーテンラント部隊
部隊名 部隊長 飛行場
I./ J.G.131 ベルンハルト ヴォルデンガ大尉
(Hptm. Bernhard Woldenga)
リーグニッツ
(Liegnitz)
Stab/ J.G.132 ゲルト フォン マッソウ中佐
(Obstlt. Gerd von Massow)
デーベリッツ
(Döberitz)
I./ J.G.132 カール フィーック少佐
(Maj. Karl Vieck)
デーベリッツ
(Döberitz)
II./ J.G.132 ヨアヒム=フリードリヒ フート大尉
(Hptm. Joachim-Friedrich Huth)
ユーターボーク=ダム
(Jüterbog-Damm)
III./ J.G.132 工学博士 エルンスト ボルマン少佐
(Maj. Dr.-Ing. Ernst Bormann)
フュルステンヴァルデ
(Fürstenwalde)
IV./ J.G.132 ヨハネス ヤンケ大尉
(Hptm. Johannes Janke)
オシャッツ
(Oschatz)
I./ J.G.137 ヨハネス ゲンツェン大尉
(Hptm. Johannes Gentzen)
ベルンブルク
(Bernburg)
II./ J.G.137 ヴォルフ=フリードリヒ フライヘア フォン フーヴァルト少佐
(Maj. Wolf-Friedrich Freiherr von Houwald)
ツェルブスト
(Zerbst)
Sch.Fl.Gr.10 ディートリヒ グラーフ フォン プファイル ウント クライン=エルグート大尉
(Hptm. Dietrich Graf von Pfeil und Klein-Ellguth)
ブリーク
(Brieg)
Sch.Fl.Gr.20 ヴェルナー レンチュ少佐
(Maj. Werner Rentsch)
ブレスラオ
(Bleslau)
Sch.Fl.Gr.50 ホルスト=ギュンター フォン コルナツキー大尉
(Hptm. Horst-Günther von Kornatzki)
グロトカオ
(Grottkau)
38年9月29日時点の南方布陣の対ズデーテンラント部隊
部隊名 部隊長 飛行場
I./ J.G.334 ハンス=フーゴ ヴィット少佐
(Maj. Hans-Hugo Witt)
ヴィーナー ノイシュタット
(Wiener Neustadt)
I./ J.G.135 マックス=ヨーゼフ イーベル中佐
(Obstlt. Max-Josef Ibel)
バート アイプリング
(Bad Aibling)
II./ J.G.135 ルドルフ シュトルテンホフ少佐
(Maj. Rudolf Stoltenhoff)
シュトラオビング
(Straubing)
I./ J.G.138 ヴィルフリート フォン ミュラー=リーンツブルク大尉
(Hptm. Wilfried von Müller-Rienzburg)
ヴィーン=アスペルン
(Wien-Aspern)
Sch.Fl.Gr.30 ジークフリート フォン エシュヴェーゲ大尉
(Hptm. Siegfried von Eschwege)
シュトラオビング
(Straubing)
Sch.Fl.Gr.40 ゲオルク シュピールフォーゲル少佐
(Maj. Georg Spielvogel)
レーゲンスブルク
(Regensburg)

ズデーテンラント進駐にあたって直接的な行動を命令され、古参の I./ J.G.131 は開隊以来留まっていたイェーザオ(Jesau)の地を8月1日に離れリーグニッツへと移動し、新規部隊の IV./ J.G.132 はヴェルノイヒェン(Werneuchen)から9月1日にオシャッツへと移動して来た。よって、これら二隊は北側で最もズデーテンラントに近接している戦闘機部隊となった。また、II./ J.G.135 は8月1日にバート アイプリングからシュトラオビングへ移動し、ヴィーン=アスペルンの I./ J.G.138 と共に南側から対峙する最も近接した戦闘機部隊となった。また、全ての襲撃航空兵大隊が彼らの任務上、国境に近い部分に駐屯していたが、五個大隊の内で最もチェコに近かったのはコルナツキー大尉の Sch.Fl.Gr.50 であった。
ベネシュのズデーテンラント譲渡拒否によって、ドイツ軍内部ではズデーテンラントに対する交戦準備が整えられた。これに加え9月24日にチェコで出された総動員令に呼応して I./ J.G.334 は25日に遥かヴィースバーデン=エルベンハイム(Wiesbaden-Erbenheim)の地からバート アイプリングへの移動を命じられた。そして、この大隊はミュンヒェン会談前日にヴィーナー ノイシュタットへ移り、更にチェコへと圧力を加えた。

ズデーテンラント併合後、戦闘機部隊に割り当てられた飛行場はメーリッシュ=トゥリューバオ(Mährisch-Trübau :チェコ名 Moravska Trebova)であり、I./ J.G.131 が10月10日より駐屯した。29日からは IV./ J.G.132 もこの飛行場を使用し、I./ J.G.131 は彼らに譲る形で31日にこの地を後にした。また、I./ J.G.136 (第3中隊を除く)は11月1日にイェファーから約500kmもの移動を行いエーガー(Eger :チェコ名 Cheb)に陣を構えて部隊名も II./ J.G.333 へと改称した(第 VI 章参照)。これについては、この時期の沿岸航空兵大隊(Küstenfliegergruppe)の編成に伴い、ヘルゴラント湾やキール湾の警備を彼らに任せる事が可能になった為と思われる。
一方で五個襲撃航空兵大隊は進駐後に廃止され、一個戦闘大隊(I./ J.G.433)、一個襲撃大隊(II.(Sch.)/ L.G.2)、及び三個急降下爆撃大隊(I./ St.G.160、I./ St.G.162、II./ St.G.163)の基幹となった。この襲撃大隊の減少と急降下爆撃大隊の増加はズデーテン要塞の陥落でチェコに対する攻撃法が面から点へと移行した事によっている。後に、唯一の襲撃部隊として残される事となる Sch.Fl.Gr.10 さえ10月中にポメルン湾に近いテュトウ(Tutow)へ移動し、チェコ進駐時もこの地からの移動命令を受けなかったのであった。

VI. - 戦力の増強と再編

ズデーテンラントの割譲後の11月1日、ドイツ空軍は再編を行った。これは来るべきチェコへの進駐が戦争へと発展する可能性を孕んでいたからに他ならない。その際に全ての部隊名が変更となったが、この改編の中で説明を要する項目が二つ出た。先ず、部隊番号の三桁目が高等航空兵指揮官から空軍集団の番号へと変更された。これに関して補足を加えるなら、オストプロイセン方面空軍司令部が 0 を、オストマルク方面空軍司令部が 4 を割り当てられた。そしてもう一つの変化として、戦闘機が軽戦闘機と重戦闘機に二分された点は強く強調されなければならない。追撃機隊としての要素を持った以前の部隊の任務は軽戦闘隊へ引き継がれ、八個大隊が爆撃機護衛と共に敵邀撃機の破壊を任務とする重戦闘隊となり、部隊名の二桁目を 4 と変更された。つまり、第 III 章で述べた兵種番号 “4” の使用は38年11月1日からとなった。以降、この頁では軽戦闘隊についてのみ解説する。重戦闘隊については、この折の模様も含めて Vorkriegszeit der Zerstörer を参照されたい。また、襲撃隊である II.(Sch.)/ L.G.2 のその後については、これ以降、解説を行なわない。以下に改編時の軽戦闘隊概要を挙げる。

旧部隊名 新部隊名 部隊長 本部設営地
I.(le.J.)/
L.G.Greifswald
I.(le.J.)/ L.G.2 ハンス トゥリューベンバッハ大尉
(Hptm. Hanns Trübenbach)
ガルツ
(Garz)
I./ J.G.131 I./ J.G.130 ベルンハルト ヴォルデンガ大尉
(Hptm. Bernhard Woldenga)
イェーザオ
(Jesau)
Stab/ J.G.132 Stab/ J.G.131 ゲルト フォン マッソウ中佐
(Obstlt. Gerd von Massow)
デーベリッツ
(Döberitz)
I./ J.G.132 I./ J.G.131 カール フィーック少佐
(Maj. Karl Vieck)
デーベリッツ
(Döberitz)
IV./ J.G.132 I./ J.G.331 ヨハネス ヤンケ大尉
(Hptm. Johannes Janke)
メーリッシュ=トゥリューバオ
(Mährisch-Trübau)
I./ J.G.234 I./ J.G.132 ゴットハルト ハントリック少佐
(Maj. Gotthardt Handrick)
ケルン=オストハイム
(Köln-Ostheim)
II./ J.G.234 II./ J.G.132 ヴェルナー パルム大尉
(Hptm. Werner Palm)
デュッセルドルフ
(Düsseldorf)
Stab/ J.G.334 Stab/ J.G.133 ヴェルナー ユンック中佐
(Obstlt. Werner Junck)
ヴィースバーデン=エルベンハイム
(Wiesbaden-Erbenheim)
I./ J.G.334 I./ J.G.133 ハンス=フーゴ ヴィット少佐
(Maj. Hans-Hugo Witt)
ヴィースバーデン=エルベンハイム
(Wiesbaden-Erbenheim)
II./ J.G.334 II./ J.G.133 フーベルト=メルハルト フォン ベルネク少佐
(Maj. Hubert-Merhart von Bernegg)
マンハイム=ザントホーフェン
(Mannheim-Sandhofen)
I./ J.G.135 I./ J.G.233 エルンスト フライヘア フォン ベルク少佐
(Maj. Ernst Freiherr von Berg)
バート アイプリング
(Bad Aibling)
II./ J.G.135 I./ J.G.333 ルドルフ シュトルテンホフ少佐
(Maj. Rudolf Stoltenhoff)
ヘルツォーゲナオラッハ
(Herzogenaurach)
I./ J.G.136 II./ J.G.333 カール=アルフレート シューマッハー少佐
(Maj. Carl-Alfred Schumacher)
エーガー
(Eger)
3./ J.G.136 6.(J.)/ 186 ハインリヒ ゼーリガー中尉
(Oblt. Heinrich Seeliger)
キール=ホルテナオ
(Kiel-Holtenau)
I./ J.G.137 I./ J.G.231 ヨハネス ゲンツェン大尉
(Hptm. Johannes Gentzen)
ベルンブルク
(Bernburg)
II./ J.G.137 II./ J.G.231 ヴォルフ=フリードリヒ フライヘア フォン フーヴァルト少佐
(Maj. Wolf-Friedrich Freiherr von Houwald)
ツェルブスト
(Zerbst)
I./ J.G.138 I./ J.G.134 ヴィルフリート フォン ミュラー=リーンツブルク大尉
(Hptm. Wilfried von Müller-Rienzburg)
ヴィーン=アスペルン
(Wien-Aspern)
Sch.Fl.Gr.10 II.(Sch.)/ L.G.2 ゲオルク シュピールフォーゲル少佐
(Maj. Georg Spielvogel)
テュトウ
(Tutow)

註: 戦術開発等を主務とした Luftwaffen-Lehr-Division(空軍教導師団)の隷下部隊である Lehrgeschwader(教導航空団)は、部隊の性格上、異兵種の大隊による混成の航空団として、国境より離れたポメルン湾西域周辺へと配置されていた。尚、I.(le.J.)/ L.G.Greifswald は37年10月1日付で新編されたものであった。

この日は Stab/ J.G.132 (改編以前の J.G.132 と混同しないよう注意が必要)、Stab (le.J.)/ L.G.2 と I./ J.G.433 の三個の組織が新設された。また、3./ J.G.136 は艦上中隊(Trägerstaffel)として独立したので、三番目中隊が欠となっていた II./ J.G.333 には新しく 6./ J.G.333 が編成された。これに続いて11月7日には四番目の軽戦闘機戦闘航空団本部となる Stab/ J.G.231 も結成された。更に39年1月1日には重戦闘航空団に対して駆逐航空団(Zerstörergeschwader)の呼称が与えられた。これにより、軽戦闘航空団は以前のように戦闘航空団と名乗るようになった。

空軍自体の大きな変化としては、39年2月1日に空軍集団が航空艦隊(Luftflotte)へと変化した。但し、航空集団から空軍集団への変化の時と同様に航空諸隊の呼称を変更する事はなかった。これはオーストリア進駐時と同じく、予定されていたチェコへの作戦に於ける混乱の回避が原因であったと思われる。

VII. - 生活圏の拡大 ( 3 )

39年3月14日にスロヴァキアがヨゼフ ティソ(Josef Tiso)を首相に擁立 - 10月26日からは大統領 - し、遂に独立が行なわれた時、ミュンヒェン協定の確約にもかかわらずヒトラーはチェコへの行動を起こした。つまり、3月14日にチェコスロヴァキア大統領エミール ハーハ(Emil Hácha)はベルリンへ呼び出され、オーストリアやズデーテンラントの場合と同様に、領土要求に拒否すれば爆撃が行なわれるとの恫喝を受けたのである。チェコスロヴァキアでは、ズデーテンラント損失に続けてポーランドやハンガリーへ領土の割譲を余儀なくされており、周辺列強国の餌食と化していた。また、ズデーテン要塞を失いスロヴァキアが独立してしまった今となってはドイツとの戦闘を想定した場合、チェコに勝算はなかった。これらの事から結局、ハーハは15日の朝にベルリンで領土要求を認める署名を行なわざるを得なかった。ドイツ軍の進駐は同日中に開始され、一部のチェコ軍航空兵はポーランドへの亡命飛行の際にドイツ軍へ機銃掃射を行なったものの、ドイツ軍に大きな損失は起こる事はなく、16日からチェコはベーメン及びメーレン帝国保護領(Reichsprotektorat Böhmen und Mähren)としてドイツの管理下に置かれた。

39年3月14日時点の対チェコ部隊
部隊名 部隊長 飛行場
Stab I./ J.G.331 ヨハネス ヤンケ大尉
(Hptm. Jahannes Janke)
ブレスラオ=シェーンガルテン
(Breslau-Schöngarten)
1./ J.G.331 フリッツ ウルチュ中尉
(Oblt. Fritz Ultsch)
ブレスラオ=シェーンガルテン
(Breslau-Schöngarten)
2./ J.G.331 ハンネス トラオトロフト中尉
(Oblt. Hannes Trautloft)
ブレスラオ=シェーンガルテン
(Breslau-Schöngarten)
3./ J.G.331 エルヴィン ノイアーブルク中尉
(Oblt. Erwin Neuerburg)
ブレスラオ=シェーンガルテン
(Breslau-Schöngarten)
Stab II./ J.G.333 カール=アルフレート シューマッハー中佐
(Obstlt. Carl-Alfred Schumacher)
ピルゼン
(Pilsen)
4./ J.G.333 ヘルムート ヘンツ中尉
(Oblt. Helmut Henz)
ピルゼン
(Pilsen)
5./ J.G.333 エーリッヒ ヴォイトケ中尉
(Oblt. Erich Woitke)
ピルゼン
(Pilsen)
6./ J.G.333 フランツ=ハインツ ランゲ中尉
(Oblt. Franz-Heinz Lange)
ピルゼン
(Pilsen)

チェコ進駐に深く関わった戦闘機部隊は、ズデーテンラント併合後よりこの地にあった I./ J.G.331 と II./ J.G.333 であった。ヤンケ大尉の大隊は、メーリッシュ=トゥリューバオ飛行場にあったが、2月3日より約一ヵ月半の間、一時的にブレスラオ=シェーンガルテン(現在はポーランドの Wroclaw-Gogolewo)へ一旦後退していた。しかし、進駐直後の3月17日には早速オルミュッツ(Olmütz :チェコ名 Olomouc)への転進命令を受けた。一方、シューマッハー中佐の大隊は既に3月14日の時点でエーガーからピルゼン(チェコ名 Plzen)へと移動しており、戦闘隊としてチェコ進駐の一番乗りを果たしていた。

VIII. - 隊名変更

チェコ進駐後の5月1日、ドイツ空軍は再び部隊名の再指定を行った。空軍集団番号の名残を持つ従来の三桁部隊名制度は廃止され、航空艦隊による振り分け番号制度が採用された。但し、教導航空団や陸軍及び海軍に対する直協部隊にこれらの制度は適用されなかった。番号は第一航空艦隊隷下が1〜25、第二航空艦隊隷下が26〜50、第三航空艦隊隷下が51〜75、第四航空艦隊隷下が76〜100を割り当てられた。以下に改編時の戦闘隊概要を挙げる。

旧部隊名 新部隊名 部隊長 本部設営地
Stab (J.)/
L.G.2
Stab (J.)/
L.G.2
エバーハルト バイアー大佐
(Obst. Eberhard Baier)
ガルツ
(Garz)
I.(J.)/ L.G.2 I.(J.)/ L.G.2 ハンス トゥリューベンバッハ大尉
(Hptm. Hanns Trübenbach)
ガルツ
(Garz)
I./ J.G.130 I./ J.G.1 ベルンハルト ヴォルデンガ大尉
(Hptm. Bernhard Woldenga)
イェーザオ
(Jesau)
Stab/ J.G.131 Stab/ J.G.2 ゲルト フォン マッソウ中佐
(Obstlt. Gerd von Massow)
デーベリッツ
(Döberitz)
I./ J.G.131 I./ J.G.2 カール フィーック少佐
(Maj. Karl Vieck)
デーベリッツ
(Döberitz)
Stab/ J.G.231 Stab/ J.G.3 マックス=ヨーゼフ イーベル中佐
(Obstlt. Max-Josef Ibel)
ベルンブルク
(Bernburg)
II./ J.G.231 I./ J.G.3 ヴォルフ=フリードリヒ フライヘア フォン フーヴァルト少佐
(Maj. Wolf-Friedrich Freiherr von Houwald)
ツェルブスト
(Zerbst)
I./ J.G.331 I./ J.G.77 ヨハネス ヤンケ大尉
(Hptm. Johannes Janke)
ブレスラオ=シェーンガルテン
(Breslau-Schöngarten)
Stab/ J.G.132 Stab/ J.G.26 エデュアルト リッター フォン シュライヒ大佐
(Obst. Eduard Ritter von Schleich)
デュッセルドルフ
(Düsseldorf)
I./ J.G.132 I./ J.G.26 ゴットハルト ハントリック少佐
(Maj. Gotthardt Handrick)
ケルン=オストハイム
(Köln-Ostheim)
II./ J.G.132 II./ J.G.26 ヴェルナー パルム大尉
(Hptm. Werner Palm)
デュッセルドルフ
(Düsseldorf)
Stab/ J.G.133 Stab/ J.G.53 工学士 ハンス クライン大佐
(Obst. Dipl.-Ing. Hans Klein)
ヴィースバーデン=エルベンハイム
(Wiesbaden-Erbenheim)
I./ J.G.133 I./ J.G.53 ロタール フォン ヤンゾン大尉
(Hptm. Lothar von Janson)
ヴィースバーデン=エルベンハイム
(Wiesbaden-Erbenheim)
II./ J.G.133 II./ J.G.53 フーベルト=メルハルト フォン ベルネク少佐
(Maj. Hubert-Merhart von Bernegg)
マンハイム=ザントホーフェン
(Mannheim-Sandhofen)
I./ J.G.233 I./ J.G.51 エルンスト フライヘア フォン ベルク少佐
(Maj. Ernst Freiherr von Berg)
バート アイプリング
(Bad Aibling)
I./ J.G.333 I./ J.G.54 ルドルフ シュトルテンホフ少佐
(Maj. Rudolf Stoltenhoff)
ヘルツォーゲナオラッハ
(Herzogenaurach)
II./ J.G.333 II./ J.G.77 カール=アルフレート シューマッハー中佐
(Obstlt. Carl-Alfred Schumacher)
ピルゼン
(Pilsen)
I./ J.G.433 I./ J.G.52 ディートリッヒ グラーフ フォン プファイル ウント クライン=エルグート大尉
(Hptm. Dietrich Graf von Pfeil und Klein-Ellguth)
ベープリンゲン
(Böblingen)
I./ J.G.134 I./ J.G.76 ヴィルフリート フォン ミュラー=リーンツブルク大尉
(Hptm. Wilfried von Müller-Rienzburg)
ヴィーン=アスペルン
(Wien-Aspern)
6.(J.)/ 186 6.(J.)/ 186 ハインリヒ ゼーリガー中尉
(Oblt. Heinrich Seeliger)
キール=ホルテナオ
(Kiel-Holtenau)

この再指定に於いて I./ J.G.231 は駆逐機部隊としての改編指示が出された。また、僅か二週間後の15日には I./ J.G.54 さえも駆逐機部隊となってしまった。

(作業中)

Text: © 2002-2007, Fuß


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