Vorkriegszeit der Jäger
I. - 設立
昼間戦闘機部隊の祖と呼べるのは34年4月1日にベルリン(Berlin)近郊のデーベリッツ(Döberitz)でドイツ航空競技団体登録組合中部ドイツ宣伝チーム(Reklamestaffel Mitteldeutschland des Deutschen Luftsportverbandes e.V.)を中核として編成されたデーベリッツ航空兵大隊(Fliegergruppe Döberitz)である。これによって、陸軍の指揮下に置かれたデーベリッツ航空兵大隊には第一次大戦で28機の撃墜記録と、プー ル メリト(Pour le Mérite)叙勲の実績を持つ、当時41歳のロベルト リッター フォン グライム(Robert Ritter von Greim)少佐が大隊長(Gruppenkommandeur)に就任した。尚、"Ritter von" とは18年10月23日付で彼がバイエルン王国戦功マックス=ヨーゼフ騎士十字勲章(Ritterkreuz des königlich bayerischen Militär-Max-Joseph-Ordens)を受け、勲爵士となった時点より名乗りを許されたものである。"Heinkel Jagdeinsitzer des Richthofengeschwaders" [ via RLM ] |
デーベリッツ航空兵大隊の He51。乗機の塗色から「赤い男爵(Der rote Baron)」と呼ばれていたリヒトホーフェンに因み、伝統色(Traditionsfarbe)として機首を赤く塗装している。 胴体の番号標識制度と尾翼の国籍標識は、35年8月8日附で軍事用航空機を対象に LA 局より極秘扱で下令( 第8617/35 号)されたもの。 |
II. - 西側諸国への対処
ドイツの再軍備に対抗してイギリス、フランス、イタリアは共同戦線としてストレーザ戦線を張り、その動きを牽制していた。更に、フランスはソ連とも仏ソ相互援助条約を結んでドイツを封じようとした。当のドイツではラインラントの非武装地帯(ドイツ西部地域。フランス及びベネルクス三国との国境地域)を有する事で、西方よりも北方に対する対処が当初の問題となった。北方の脅威は北海沿岸を拠点とする海軍に大きく関わる問題であり、海軍の指揮下にあった戦闘機部隊といえば、34年10月と35年4月に編成された第1 及び 第2(戦闘機)飛行中隊(Fliegerstaffel (J.) 1 及び 2)の二個中隊がキール=ホルテナオ(Kiel-Holtenau)に駐留していた。
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III. - 戦闘航空団としての組織化
ラインラントへの進駐は国防軍への戦力増加をもたらせた。航空部隊についても同様であり、戦闘、爆撃、急降下爆撃の各部隊には36年4月1日に上部組織となる戦隊(Geschwader)八個が編成されると同時に、偵察航空兵や訓練生の為のものを含めて新規の航空兵大隊を数多く組織した。
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註:例えば、戦闘機を装備としていたデーベリッツ航空兵大隊は I./ J.G.132 の名を与えられた。つまり、132 とはベルリンの第 II 航空集団司令部指揮下に於ける軽装備戦闘部隊としての最初の航空団を意味している。
これにより書類等では部隊名は数字のみで判別する事が出来た。例えば、I./ J.G.132 ならば I./ 132 とする表記でも航空部隊であれば重複する部隊は存在しなかった。次に、改称時の新名称と部隊の状態を示す。
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IV. - 生活圏の拡大 ( 1 )
ヴェルサイユ条約では同盟国側に対する制裁としてのオーストリア=ハンガリー帝国の解体によって、チェコスロヴァキアが誕生した。また、ドイツ東部ではオストプロイセン(Ostpreußen)州の一部がリトアニアへ、ポーゼン(Posen)州やヴェストプロイセン(Westpreußen)州の大部分が割譲されポーランドとなった。ラインラント進駐の後、ドイツではこれら東部のアーリア系民族居住地域の奪回による 「生活圏(Lebensraum)」 の拡大が画策された。ここではラインラント進駐後に起こった、これらドイツ東部及び南部を含む東方への動きを見てみたい。
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註: Luftkreis 及び Höherer Fliegerkommandeur の部隊番号は37年10月12日より、従来のローマ数字からアラビア数字へと変更されていた。
これらの部隊名を空軍集団の番号に変更させなかった理由として、指揮上での問題発生を抑止する為の効果が考えられる。というのもドイツにとっての大きな動きが翌3月に早速起っており、この改正を行った時点で、近く “その動き” が発生し得ると考えられていたからである。
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V. - 生活圏の拡大 ( 2 )
次なる矛先となったチェコスロヴァキアに対するドイツの動きもオーストリアの場合と共通する部分が多い。この為に V、VII 章でも戦闘機部隊の動きのみでなく政治的なやり取りも絡めて見ていきたい。
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VI. - 戦力の増強と再編
ズデーテンラントの割譲後の11月1日、ドイツ空軍は再編を行った。これは来るべきチェコへの進駐が戦争へと発展する可能性を孕んでいたからに他ならない。その際に全ての部隊名が変更となったが、この改編の中で説明を要する項目が二つ出た。先ず、部隊番号の三桁目が高等航空兵指揮官から空軍集団の番号へと変更された。これに関して補足を加えるなら、オストプロイセン方面空軍司令部が 0 を、オストマルク方面空軍司令部が 4 を割り当てられた。そしてもう一つの変化として、戦闘機が軽戦闘機と重戦闘機に二分された点は強く強調されなければならない。追撃機隊としての要素を持った以前の部隊の任務は軽戦闘隊へ引き継がれ、八個大隊が爆撃機護衛と共に敵邀撃機の破壊を任務とする重戦闘隊となり、部隊名の二桁目を 4 と変更された。つまり、第 III 章で述べた兵種番号 “4” の使用は38年11月1日からとなった。以降、この頁では軽戦闘隊についてのみ解説する。重戦闘隊については、この折の模様も含めて Vorkriegszeit der Zerstörer を参照されたい。また、襲撃隊である II.(Sch.)/ L.G.2 のその後については、これ以降、解説を行なわない。以下に改編時の軽戦闘隊概要を挙げる。
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註: 戦術開発等を主務とした Luftwaffen-Lehr-Division(空軍教導師団)の隷下部隊である Lehrgeschwader(教導航空団)は、部隊の性格上、異兵種の大隊による混成の航空団として、国境より離れたポメルン湾西域周辺へと配置されていた。尚、I.(le.J.)/ L.G.Greifswald は37年10月1日付で新編されたものであった。
この日は Stab/ J.G.132 (改編以前の J.G.132 と混同しないよう注意が必要)、Stab (le.J.)/ L.G.2 と I./ J.G.433 の三個の組織が新設された。また、3./ J.G.136 は艦上中隊(Trägerstaffel)として独立したので、三番目中隊が欠となっていた II./ J.G.333 には新しく 6./ J.G.333 が編成された。これに続いて11月7日には四番目の軽戦闘機戦闘航空団本部となる Stab/ J.G.231 も結成された。更に39年1月1日には重戦闘航空団に対して駆逐航空団(Zerstörergeschwader)の呼称が与えられた。これにより、軽戦闘航空団は以前のように戦闘航空団と名乗るようになった。VII. - 生活圏の拡大 ( 3 )
39年3月14日にスロヴァキアがヨゼフ ティソ(Josef Tiso)を首相に擁立 - 10月26日からは大統領 - し、遂に独立が行なわれた時、ミュンヒェン協定の確約にもかかわらずヒトラーはチェコへの行動を起こした。つまり、3月14日にチェコスロヴァキア大統領エミール ハーハ(Emil Hácha)はベルリンへ呼び出され、オーストリアやズデーテンラントの場合と同様に、領土要求に拒否すれば爆撃が行なわれるとの恫喝を受けたのである。チェコスロヴァキアでは、ズデーテンラント損失に続けてポーランドやハンガリーへ領土の割譲を余儀なくされており、周辺列強国の餌食と化していた。また、ズデーテン要塞を失いスロヴァキアが独立してしまった今となってはドイツとの戦闘を想定した場合、チェコに勝算はなかった。これらの事から結局、ハーハは15日の朝にベルリンで領土要求を認める署名を行なわざるを得なかった。ドイツ軍の進駐は同日中に開始され、一部のチェコ軍航空兵はポーランドへの亡命飛行の際にドイツ軍へ機銃掃射を行なったものの、ドイツ軍に大きな損失は起こる事はなく、16日からチェコはベーメン及びメーレン帝国保護領(Reichsprotektorat Böhmen und Mähren)としてドイツの管理下に置かれた。
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VIII. - 隊名変更
チェコ進駐後の5月1日、ドイツ空軍は再び部隊名の再指定を行った。空軍集団番号の名残を持つ従来の三桁部隊名制度は廃止され、航空艦隊による振り分け番号制度が採用された。但し、教導航空団や陸軍及び海軍に対する直協部隊にこれらの制度は適用されなかった。番号は第一航空艦隊隷下が1〜25、第二航空艦隊隷下が26〜50、第三航空艦隊隷下が51〜75、第四航空艦隊隷下が76〜100を割り当てられた。以下に改編時の戦闘隊概要を挙げる。
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