開発命令
先述の通り設計資料は同様のものが二組用意されていたが、呂五〇一に積み込まれた資料は、それを携えて来る筈であった吉川技術中佐と共に海中に消えてしまった。
他方、伊二九側では巖谷英一技術中佐が航空機関係資料を携えシンガポールで下船したが、全ての物を運び出す事はしなかった。これら便乗者は、シンガポールから東京まで空路を用いる事とされていたが、不測の事態に陥った場合を予測して、巖谷技術中佐と伊二九に資料を二分して運ぶ事とされていたのではなかったか。
巖谷技術中佐のもたらした一部図面により、ロケット戦闘機の検討会が海軍軍令部、海軍航空本部及び海軍航空技術廠(空技廠)と陸軍参謀本部、陸軍技術研究所及び陸軍航空審査部、これに加え民間五社からの関係者を集めて空技廠で開催され、Me163を早急に「呂号兵器」とし、潜水艦沈没によって多数の図面が失われていた為に各分野の専門機関へ協力を呼びかけ、「マルロ(正しくは○の中にロと書く)計画」の名の下、陸海軍、民間で共同開発を行なう事とされた。
この後、海軍側では9月3日に航空用呂号兵器委員会を発足させ、官房空機密第二三〇六、第二三〇七号により以下の通り任命した。
職 | 官、姓名 | 期別 | 備考 |
委員長 | 海軍中将 和田操 | 海兵三九期 | 海軍航空技術廠長 |
委員 | 海軍中佐 淺田昌彦 | 海兵五二期 海大三四期 |
海軍省軍務局 |
海軍中佐 小國ェ之輔 | 海機三三期 | 海軍省軍務局 | |
海軍中佐 鈴木俊郎 | 海機三二期 | 海軍省軍需局 | |
海軍中佐 鈴木榮二郎 | 海兵五二期 海大三六期 |
軍令部 | |
海軍大佐 山田厖男 | 海機二九期 | 海軍航空本部 | |
海軍大佐 小林淑人 | 海兵四九期 | 海軍航空本部 | |
海軍中佐 愛甲文雄 | 海兵五一期 | 海軍航空本部 | |
海軍中佐 伊東祐滿 | 海兵五一期 | 海軍航空本部 | |
海軍中佐 山ノ上庄太郎 | 海兵五二期 | 海軍航空本部 | |
海軍中佐 江島武夫 | 海軍航空本部 | ||
海軍少佐 P戸山八郎 | 海兵五八期 | 海軍航空本部 | |
海軍少佐 永P芳雄 | 海機四一期 | 海軍航空本部 | |
海軍技術中佐 巖谷英一 | 海軍航空本部 | ||
海軍技術中佐 山崎新一 | 海軍航空本部 | ||
海軍技術少佐 寺田仁郎 | 海軍航空本部 | ||
海軍技師 西川政一 | 海軍航空本部 | ||
海軍大佐 三井再男 | 海兵四九期 | 海軍艦政本部部員 | |
海軍中佐 鈴木武 | 海兵五二期 | 海軍技術研究所 |
また、陸軍側では呂号乙薬委員会を発足させ、9月27日附で次の通り任命した。
職 | 官、姓名 | 期別 | 備考 |
委員長 | 陸軍少将 佐藤賢了 | 陸士二九期 砲 陸大三七期 |
陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、大本営陸軍大臣随員 19年12月14日、陸海軍石油委員会委員、陸海軍航空委員会委員長、陸海軍技術運用委員会副委員長、呂号乙薬委員会委員長任免 |
陸軍少将 眞田穰一郎 | 陸士三一期 歩 陸大三九期 |
陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、大本営陸軍大臣随員 19年12月14日、陸海軍石油委員会委員、陸海軍航空委員会委員長、陸海軍技術運用委員会副委員長、呂号乙薬委員会委員長任命 |
|
委員 | 陸軍少将 伊藤鈴嗣 | 陸士三〇期 歩 陸大四二期 |
陸軍兵器行政本部総務部長 (陸軍兵器行政本部総務部第一課長事務取扱被仰付) |
陸軍大佐 佐藤裕雄 | 陸士三五期 砲 | [陸軍省整備局戦備課長] | |
陸軍大佐 林三郎 | 陸士三七期 歩 陸大四六期 |
参謀本部編制動員課長 | |
陸軍大佐 宮子實 | 陸士三六期 砲 陸大四七期 |
陸軍航空本部総務部総務課長兼陸軍航空総監部総務部総務課長兼大本営陸軍参謀如故 | |
委員兼幹事 | 陸軍大佐 西浦進 | 陸士三四期 砲 陸大四二期 |
陸軍省軍務局軍事課長、大本営陸軍大臣随員 19年12月8日、陸海軍技術運用委員会委員兼幹事、呂号乙薬委員会委員兼幹事、陸軍共済組合財産運用委員、要塞建設実行委員、陸海軍石油委員会幹事、陸海軍電波技術委員会委員、陸海軍航空委員会委員任免 |
陸軍大佐 二~力 | 陸士三四期 歩 陸大四一期 |
陸軍省軍務局軍事課長、大本営陸軍大臣随員 19年12月8日、陸海軍技術運用委員会委員兼幹事、呂号乙薬委員会委員兼幹事、陸軍共済組合財産運用委員、要塞建設実行委員、陸海軍石油委員会幹事、陸海軍電波技術委員会委員、陸海軍航空委員会委員任命 20年4月16日、陸軍共済組合財産運用委員、要塞建設実行委員、陸海軍電波技術委員会委員、陸海軍航空委員会委員、陸海軍技術運用委員会委員兼幹事、呂号乙薬委員会委員兼幹事任免 |
|
陸軍大佐 荒尾興功 | 陸士三五期 歩 陸大四二期 |
陸軍省軍務局軍事課長、大本営陸軍大臣随員 20年4月16日、陸軍共済組合財産運用委員、要塞建設実行委員、陸海軍電波技術委員会委員、陸海軍航空委員会委員、陸海軍技術運用委員会委員兼幹事、呂号乙薬委員会委員兼幹事任命 |
|
委員輔佐 | 陸軍中佐 ョ富美夫 | 陸士四三期 航 陸大五二期 |
陸軍航空本部附兼陸軍省軍務局課員多摩陸軍技術研究所所員海軍省軍務局局員 20年1月26日、大本営陸軍参謀兼補 20年2月26日、陸海軍電波技術委員会幹事、陸海軍真空管生産委員会委員、呂号乙薬委員会委員輔佐任免 |
陸軍中佐 松尾忠愛 | [陸軍兵器行政本部部員] | ||
陸軍少佐 浦茂 | 陸士四四期 歩 陸大五二期 |
大本営陸軍参謀兼陸軍航空本部技術部部員 20年2月20日、陸軍大学校兵学教官兼補 |
|
陸軍少佐 佐々木讓 | 陸士四六期 歩 陸大五七期 |
陸軍航空本部総務部部員兼陸軍航空総監部総務部部員海軍航空本部部員 | |
陸軍技術少佐 若山一彦 | [陸軍省軍務局局員兼整備局附] | ||
陸軍少佐 秀嶋正三 | 陸軍兵器行政本部附兼陸軍省軍務局課員大本営陸軍参謀 20年2月26日、呂号乙薬委員会委員輔佐任命 |
機体の呼称は海軍側が「一九試局地戦闘機(J8M)」、陸軍側が「キ二〇〇」と決められ、8月7日に三菱重工業へ発注が行なわれた。開発は三菱重工業名古屋航空機製作所(愛知県名古屋市港区大江町)及び空技廠(神奈川県横須賀市追浜)が担当となり、三菱の高橋己治朗技師を設計主務者、疋田徹郎・原田金次(主翼及び尾翼)、楢原敏彦(胴体)、蝦名勇(武装)、今井功・中村武(降着装置)、磯邊保文(操縦関係)、小佐弘(電気系統)、貞森俊一、K岩信等の各技師による設計と空技廠科学部の越野長次郎技術中佐による翼型の決定もあって、9月には木型審査を通過、12月には第一次実物構造審査を終了させている。 「秋水」
機体の製造は、三菱の他に日本飛行機富岡工場及び山形工場(神奈川県横浜市磯子区及び山形県山形市)、日産輸送機鳥取工場(鳥取県鳥取市)、富士飛行機大船工場(神奈川県鎌倉郡深沢村)にて行なわれた。
呂号兵器の機体は海軍主導で開発された為、一九試局地戦闘機と呼んで差し支えないであろう。この機体は「秋水(しゅうすい)」と命名されているが、その日附や由来は不明である。本来、海軍では単発の乙戦(局地戦闘機)の場合、「電」を附した名称とするのが通例だが、ロケット機という特殊な分類故か、これには倣っていない。「海軍にて」で後述する様に、隊員達は10月より自らを秋水隊と名乗っており、これが影響しているのは明らかである。
海軍が「秋水」を機の呼称と決定した経緯には、これ以外に「秋」の字から木型審査の合格が多少なりとも絡んでいると考えられる。また、ドイツに於けるMe163研究部隊であった第一六実験部隊(Erprobungs Kommando 16)で隊長を務めていたヴォルフガング シュペーテ大尉(Hptm. Wolfgang Späte)が自身としては初の Me262の試験飛行を昭和18年4月17日に行っており、彼は戦後の自著の中でこの時の感想を『Me163を研ぎ澄まされた短剣とするなら、Me262は切れ味の鋭い長剣だった』と述べている。この言葉が当時既に流布されており、尚且つ、これが駐独日本大使館附武官の耳にも入っていたとすれば、「三尺秋水(さんじゃくのしゅうすい)」に由来しているのかも知れない。
尚、海軍機の場合は正式な呼称であったが、陸軍が飛行機に与えたものは非公式な愛称である。従って、三菱が開発した陸軍機「飛龍」も正式名称は「四式重爆撃機」であった。この事から、陸軍に於ける「秋水」の名は、海軍が制定したものを愛称として用いたに過ぎない。
一方、日本版HWK109-509A-2原動機の名称は陸軍側が「特呂二号」、海軍側が「KR-10」となった。開発は三菱重工業名古屋発動機製作所(愛知県名古屋市東区大幸町)及び陸軍航空工廠(東京都立川市)の担当とされ、持田勇吉以下各技師が開発に当たった。
三菱による薬液ロケットの原動機は、艦船攻撃用の陸軍兵器イ号一型無線誘導弾(キ一四七、キ一四八)の為の「特呂一号」が開発途上にあった。三菱重工業長崎兵器製作所(長崎県長崎市)が以前より特攻兵器「回天」の新しい機関として「六号機械」を開発中でもあり、これも参考とされた。
特呂二号の開発は難航した。三菱重工業名古屋発動機製作所は、12月7日の東南海地震と同13日の名古屋空襲で工場が壊滅的な打撃を受け、空技廠に移して開発が続けられた。この辺に海軍側の苛立ち、或いは「秋水」に対する影響力を強めようとする気配が感じられる(現在の目から見ても、秋水配備は海軍側が極めて積極的であった感が否めない)。その後、米戦闘機の来襲により、第一技術廠(2月に空技廠を改編改称)からの疎開が考えられるようになった。20年4月には陸軍航空審査部松本派遣隊が松本商業学校(長野県松本市大字筑摩県町、現・松商学園高等学校)に、海軍が第一技術廠山北実験場(神奈川県足柄上郡北足柄村大字内山)に設備を整え、開発・改修・製造を進めた。二箇所に分散させて被害を最小限に留めるという意味があるのかも知れないが、既に発動機の製造で陸海軍の歩調が乱れかれていたというのが実情であったのではなかろうか。
「秋水」の燃料は呂号乙薬であり、これは甲液(T液(T-Stoff)に相当)と乙液(C液(C-Stoff)に相当)の二液を用いる。
海軍は甲液で必要とされる過酸化水素を第一海軍燃料廠(神奈川県鎌倉郡本郷村)と第二海軍燃料廠(三重県四日市市)の製造と決定し、昭和19年7月下旬に海軍省軍需局特薬部が甲液製造に用いる器具の製造指示を各地の陶磁器製造会社へ出した。甲液は強酸性で金属製の炉や燃料槽は使用不可能である為、器具一切を陶磁器製とせねばならなかったからである。
これらは日本硝子(愛知県名古屋市)、松風工業(京都府京都市本町)、高山耕山化学陶器(京都府京都市)、大阪陶業(大阪府大阪市)、日本陶管(愛知県刈谷市)、岩尾磁器(佐賀県西松浦郡有田町)、曽根磁叟園製陶所(岐阜県恵那郡陶町)、東洋陶器(福岡県小倉市板櫃町)、伊奈製陶(愛知県知多郡常滑町)等で作られた。作製に従事した者の間では「マルロ」や「ロ号兵器」と呼ばれていたようである。
これに加えて、10月15日に施行された軍需省令第六〇号に基づき白金の供出が国民に対して新聞等で広く呼びかけられた。白金は燃料である甲液の触媒として用いるのに必要だったのである。
海軍略譜号名の「J」が示すように、この機の目的は局地戦闘(つまりは B-29の邀撃)であり、用法はMe163と同様に爆撃機編隊の上空まで上昇、反転し、高速性能を利用して攻撃した後に滑空し、基地へと帰還するというものであった。
薬液ロケットを動力とする事で上昇力と速度の点では当時のどの戦闘機よりも優れ、周囲の酸素濃度の影響を受けない薬液ロケットならば高高度で飛来するB-29に十分に対抗し得ると考えられたのであろう。この時、日本に於ける過給器の開発の遅れもロケット機開発に拍車をかける一因となったと想像される。
ドイツ空軍のMe163による実戦部隊、第四〇〇戦闘航空団(Jagdgeschwader 400)は昭和19年7月よりB-17の邀撃に当たった。この部隊は当初幾つかの戦果を挙げたが、邀撃を受ける内に連合軍はMe163の航続距離が極端に短い事実を見抜いて、爆撃機編隊は次第に彼等の飛行場を迂回して来襲する様になった。燃料の特殊さから基地移動が困難であった為、この航空団はそれ以後邀撃が行なえなくなった。
つまり、「秋水」による実戦部隊が活動を始めても、その運用では多くの問題を伴ったであろうと予想される。
これと共に燃料工場が爆撃されれば部隊の活動は完全に停止してしまう。ドイツの第四〇〇戦闘航空団が邀撃を実施できなくなった最大の原因は、C液製造工場に対する空襲被害であった。
日本でも同様に、九回に及んだ四日市空襲のひとつ、7月9日の爆撃で第二海軍燃料廠が甚大な被害を蒙っている。
「秋水」関連の製造施設に対する米陸軍航空隊第二〇航空軍(20th Air Force)の爆撃は以下の通りであった。
海軍にはJ8M1、陸軍にはキ二〇〇として納入され、
これらは工場や部隊で「実機」と呼ばれた。
三菱第403号機の胴体後部ステンシルは「試製秋水」であり、
三菱第504、日飛第81号機のそれは「秋水」であった事から、
機銃の搭載が可能となった機には「試製」の記入がなされなかったようである。
製造番号 | 機体製造元 | 納入先 | 原動機 | 備考 |
三菱 第201号 |
三菱重工業 大江 |
海軍 | 山北製 KR-10 | 20年7月7日、大破 |
三菱 第302号 |
三菱重工業 大江 |
陸軍 | 松本製 特呂二号 (未完成) |
終戦後、柏飛行場にて焼却 |
三菱 第403号 |
三菱重工業 大江 |
海軍 | 山北製 KR-10 (爆発、未完成) |
横須賀第一航空基地(?)にて終戦 米軍が接収(A25) |
三菱 第504号 |
三菱重工業 大江 |
海軍 | (未完成) | 横須賀第一航空基地(?)にて終戦 米軍が接収(A26) |
日飛 第81号 |
日本飛行機 山形工場 |
海軍 | (未完成) | 横須賀第一航空基地(?)にて終戦 米軍が接収(A24) |
日飛 第82号 |
日本飛行機 富岡工場 |
製造中 | (未完成) | 6月10日被災 (終戦により富岡工場敷地内に埋められた?) |
日飛 第83号 |
日本飛行機 山形工場 |
製造中 | (未完成) | 被災した日飛第82号に主翼の部品を使用か? |
試製軽滑空機「秋草」
完成した機体は全て試作機である。
海軍にはMXY8、陸軍にはク一三として納入された。
第4号機の胴体後部ステンシルには「一技廠第4號」とある。
製造番号 | 機体製造元 | 納入先 | 備考 | |
空技廠第1号 | 空技廠 | 海軍 | 12月25日百里ヶ原航空基地着 霞ヶ浦航空基地にて終戦 |
|
一技廠第2号 | 第一技術廠 | 陸軍 | 陸軍へ譲渡 終戦後、柏飛行場にて焼却 | |
一技廠第3号 | 第一技術廠 | 海軍 | 霞ヶ浦航空基地にて終戦 | |
一技廠第4号 | 第一技術廠 | 海軍 | 陸軍へ譲渡 終戦後、柏飛行場にて焼却 | |
横井航空 | 海軍 | 霞ヶ浦航空基地にて終戦 | ||
霞ヶ浦航空基地の引渡目録から、海軍側が昭和20年9月の段階で試製軽滑空機を三機有していたのが判る。これらは、第1、第3号機と横井航空製造の一機であったと思われる。 |
試製重滑空機
製造番号 | 機体製造元 | 納入先 | 備考 |
(一号機) | 三菱重工業 大江 |
海軍 | 1月6日百里ヶ原航空基地着 8月に陸軍へ譲渡、霞ヶ浦航空基地から柏飛行場へ 8月11日、破損 |
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