陸軍にて

陸軍航空審査部(東京都西多摩郡福生町 - 以降、航審と略)に、「噴進原動機」を搭載した航空機の特性や用法の確立を目的とする特殊航空兵器部(特兵部)が設置された。特兵部の下では、薬液ロケットである「特呂」原動機を搭載した「キ一四七」及び「キ一四八」、「キ二〇〇」、タービンロケットである「ネ」原動機を搭載した「キ二〇一」の研究が続けられた。しかし、この特兵部については謎の部分が極めて多い。
航空史研究家の渡辺洋二氏は、その丹念な調査と鋭い切り口で多くの良書を著しており、著書「未知の剣(旧題、陸軍実験戦闘機隊)」もそのひとつである。但し、この中で「十月中旬」に設置された「特兵部」は「発動機部長・絵野沢静一少将がトップを兼務」としている点だけは疑問が残る。この人事は、10月13日に公布、施行された勅令第五九一号「陸軍航空審査部本部長ノ陸軍航空技術研究所長及陸軍航空工廠長ニ對スル區處ニ關スル件」に基づくものであり、昭和19年10月19日の発令にて第二陸軍航空技術研究所長繪野沢靜一少将(陸士二八期)が航審部員を兼補とされてはいるものの、この勅令に基づき同日附で第一から第八陸軍航空技術研究所の全所長に対して航審部員を兼補と発令されているのであって、繪野沢少将が一部門の「トップ」に補職された訳ではない(異動通報では10月12日附の航審飛行実験部長交替人事についても陸軍航空審査部令第三条に基づき「陸軍航空審査部部員」の記載ではあるが)。
確かに、9月5日の「陸海軍技術運用委員会」の任命に端を発し、9月27日の「呂号乙薬委員会」人事の後に出された10月19日の人事も少なからず特兵隊に関わっていた。しかし、勅令の理由書と説明書にあるように、新型航空兵器を早急に前線へ配備する方策として、審査・研究・改修の一元化を図る為に各航技研、航工廠を「臨時特例」として航審本部長の区処下に置いたのであり、この人事の対象となったのは「特殊航空兵器」のみならず、夜間戦闘機、高々度戦闘機、木製機、更には各種器材等の多岐に及んだ。
ちなみに繪野沢少将は中将に進級し、昭和20年4月21日に陸軍航空本部技術部長となるまでこれらを兼務しており、後任は信濃成繁大佐が同日附で第二陸軍航空技術研究所長兼陸軍航空審査部部員如故とされた。
問題となる特兵部の設置は恐らく昭和20年1月であったのだろう。というのも、陸軍省の「陸軍航空本部編制人員表」にある「陸軍航空審査部」の二枚目を見ると摘要欄に次の様な書込みがなされているからである。

この陸亜密第594号は昭和20年1月21日の発令であり、増加配属の内訳は将官1、佐官3、佐(尉)官8、尉官47、兵70、技術部将校77、衛生部将校2、衛生兵6の214名であった。これにより、航審の編制は1,723名から1,937名となった。
特兵部長が誰であったのかを明確に記述した文献は、特兵部でイ号誘導弾の原動機班附であった片岡主一氏による自伝「軍事機密に懸けた我が青春」であり、特兵部長を大森中佐と述べている。この大森中佐に該当するのは、昭和17年10月15日より第一陸軍航空技術研究所所員兼陸軍航空審査部部員であった大森丈夫技術中佐であると思われる。更に、片岡氏は特兵部の結成式が昭和20年1月17日か18日に挙行され、出席者七、八十人の殆んどが将校であり、少佐が十五名以上、大半が大尉であったとした上で、大森中佐は「本日ここに特兵部を結成する」と訓示したと回想している。「特兵隊」が特兵部の下にあったのか、特兵部の前身であったのかは歴然としないが、「未知の剣」の文中では後述する林中尉の異動時に「特兵隊附ヲ命ズ」と辞令に書かれていたとある為、このページでは1月中旬迄飛行実験部特兵隊であったものが、それ以降特兵部に昇格したものとして話を進める。

空中勤務者は、常陸教導飛行師団教導飛行隊附兼陸軍航空審査部部員であった有瀧孝之助大尉(航士五三期)、常陸教導飛行師団教導飛行隊附であった篠原修三中尉(航士五六期)と林安仁中尉(航士五六期)、常陸教導飛行師団司令部附であった坂元力郎少尉(航士五七期)に対し昭和19年11月25日附で航審部員へ異動との命が発令され、常陸教導飛行師団教導飛行隊の岩澤三郎曹長(操縦八七期)と栗原正伍長(少飛一二期)も共に異動となった。彼らは当初より特兵隊秋水班附であったようである。
昭和19年12月16日、飛行第一七戦隊長を務めていた荒蒔義次少佐(陸士四二期、操縦三七期)に、航審部員への異動が命ぜられた。荒蒔少佐は以前にも福生で試作機の審査に明け暮れており、これに復職する形となった。しかし、苛烈を極めるフィリピンの戦場から脱する事は容易ではなく、クラーク飛行場を離れたのは翌20年1月9日であり、福生の航審飛行実験部に着任したのは1月も中旬となっていた。更に、荒蒔少佐はフィリピンにてマラリアに羅患しており、当時まだ癒え切っておらず空中勤務に就く事が困難であった。
その後も飛行第二三戦隊から岡本芳雄准尉が異動して来た他、鈴木軍曹、磯村軍曹も秋水班に加わった。

第三一二海軍航空隊の操縦員に比較して特兵部秋水班の空中勤務者が有利であった点は、航審飛行実験部戦闘隊が敵邀撃に際して「福生飛行隊(ふっさひこうたい)」と称されており、秋水班の殆んどの者がこれに加わって本土でのB-29邀撃を体験していた事である。
ある日の攻撃では、有瀧大尉、林中尉、篠原中尉、岩澤曹長による編隊で模範的な攻撃を行いB-29一機を撃墜した。この機が墜落炎上したのを岩澤曹長は確認している。また、2月15日には岡本准尉がB-29を撃破、19日には有瀧大尉、岡本准尉、熊谷彬技術大尉(操縦九〇期、戦闘隊附)、竹澤俊郎少尉(操縦五八期、戦闘隊附)の四機編隊によってB-29一機を撃墜、熊谷技術大尉がこれを確認している。但し、これらの撃墜は日時と墜落地点の詳細が特定されていない為、墜落機がどの機体かは断定できない。
戦果だけではなく、被害もあった。2月16日に邀撃に上がった岡本准尉はF6Fとの戦闘で被弾し、辛くも機外脱出したものの開傘時に骨折した(但し、上記の如く岡本准尉は19日の戦闘に参加しているので、どちらかの日附が誤っているものと思われる)。後述する大阪陸軍飛行場への視察に岡本准尉は同行できなかった。まだ加療中の身であったからである。

「キ二〇〇」へ機種改編する部隊として、柏陸軍飛行場(千葉県東葛飾郡田中村)に展開中の飛行第七〇戦隊が指定されたのを受け、20年3月10日に特兵部の一隊が福生を発った。兵器班、自動車班、無線班等の地上勤務者は直接柏へと向かう一方で、空中勤務者は大阪陸軍飛行場へと向かった。これは、生駒山山頂から大阪陸軍飛行場への滑空訓練が「秋水」操縦要員に必要か否かを調査する目的であったが、荒蒔少佐は不適であるとの評価を下した。このような関係で空中勤務者の柏到着は4月上旬となってしまった。この「キ二〇〇」の飛行研究部隊は陸軍航空審査部柏派遣隊と称し、派遣隊長には荒蒔少佐が任命されていた。
柏飛行場に航審柏派遣隊の為の兵舎はなく、復員に至るまで近隣の寺院を間借りしていた。空中勤務者は飛行場西隣の日蓮宗妙高山法榮寺、地上勤務者は飛行場南方の日蓮宗通法山成顯寺がその宿舎として用いられていたようである。
柏に到着してから、荒蒔少佐は航審飛行実験部戦闘隊附の老練な操縦者であった伊藤武夫大尉(操縦六七期、少候二〇期)を特兵隊附にすると共に、無尾翼機研究の権威者であった東京帝国大学航空研究所(東京都目黒区駒場町)の木村秀政技師に協力を仰ぎ、両名を加えて滑空機による訓練や研究が続けられた。
柏に移ってからは、海軍の製造した滑空機MXY8が「ク一三」として納められ、より実機に近い訓練を行なえる様になり、6月10日附で将校の進級が発令されると、航審柏派遣隊の空中勤務者から有瀧大尉が少佐、篠原と林の両中尉が大尉へ進級した。
その後、8月になると海軍が所有していた試製重滑空機が陸軍に引き渡される事となり、荒蒔少佐は霞ヶ浦航空基地から柏飛行場まで海軍の艦上攻撃機「天山」に曳航される形で同機に乗り込み輸送して来た。この機は、8月11日の滑空訓練中に樹木と接触、不時着し飛行不能となった。この際に操縦を行っていた伊藤大尉は重傷を負っている。

航審柏派遣隊では、20年7月に原動機の問題から海軍側の実機が初飛行にて損傷との報が入り、改修の為に「特呂二号」の納期は更に遅れる見込みとなっていた。それでも、この問題も乗り越えて8月中に原動機が柏へと運ばれたようである。
8月は米軍によって武装解除が命ぜられるまで半月間しかなかったが、実機もまた柏飛行場へ持ち込まれたとされており、8月20日に陸軍側初の実機飛行試験が実施される予定だったと伝えられている。

陸軍では秋水の飛行時間の短さを改善する為、陸軍航空工廠(東京都北多摩郡昭和町)が「キ二〇二」を計画した。これはドイツのMe263(Ju248)を真似たものではないが、同じ構想に基づくものであり、胴体の延長と主翼の大型化によって甲乙両液の燃料槽の容量を大きくさせるというものであった。但し、着陸の際に橇を使うという点ではMe263(Ju248)と異なっている。
「キ二〇二」に関しては、基礎形と構造図面の審査を終戦当日の8月15日に行っていたという。

飛行第七〇戦隊

飛行第七〇戦隊は昭和16年3月5日に満洲国東安省勃利県杏樹(ぼつりけんきょうじゅ)で編成を完結。満洲七一六の通称号を配当され、九七式戦闘機(キ二七)を装備としていた。これは、18年5月になると二式単座戦闘機「鍾馗」(キ四四)へと変更された。
そして、19年5月に第一航空軍第一〇飛行師団長隷下へ置かれると、松戸飛行場(千葉県松戸市)へと移動している。
しかし、7月29日の米軍による第一回鞍山空襲を受け、31日には関東軍総司令官指揮下となって本隊は南満へ派遣され、8月1日より満洲国奉天省鞍山市(あんざんし)にある昭和製鋼所の防空に従事した。
9月26日の第三回鞍山空襲以降、米軍航空部隊の動きは鎮静化しており、11月には第一〇飛行師団長指揮下に復帰との命を受けて内地へ帰還、8日には柏飛行場へと移り(東部一〇五を配当)、20年6月には四式戦闘機「疾風」(キ八四)に装備を変更しつつ、終戦まで関東地方の防空を担った。
「キ二〇〇」への改変準備は20年7月から開始されたが、開発の遅れから同隊の隊員は身体機能を測定した(恐らく、陸軍航空適性検査部によるもの)のみで滑空訓練に加わる事はなかった。尤も、開発が間に合っていたとしても、戦況が悪化し連日の邀撃が行なわれる中で訓練できたか甚だ疑問である。
尚、航審柏派遣隊が移動して来た昭和20年3月以降に於ける柏陸軍飛行場駐屯部隊の幹部は以下の通りであった。

官、姓名 期別 備考
飛行第七〇戦隊(東部一〇五、天翔八三七〇)
戦隊長 陸軍少佐 坂戸篤行 航士五二期
第四震天隊長 陸軍少尉 小林茂 航士五七期
飛行隊長 陸軍大尉 本多ェ嗣 航士五四期 8月10日戦死
第一隊長
第二隊長 陸軍大尉 渡部忠良 陸士五五期
操縦八八期
第三隊長 陸軍大尉 吉田好雄 航士五五期
整備隊長 陸軍大尉 向井達觀 陸士五五期
飛行第一八戦隊(天翔一九一九〇)
本隊が2月下旬に到着 5月上旬に松戸飛行場へ移動
戦隊長 陸軍少佐 磯恬マ三 航士四八期
第六震天隊長 陸軍中尉 小宅光男 少候二二期 6月10日、大尉進級
飛行隊長 陸軍大尉 川村春雄 航士五五期
第七飛行場大隊(東部一一八、天翔一九一九三)
大隊長 陸軍大尉 沼澤廣
第四航空教育隊(東部一〇二、紺五七二)
隊長 陸軍少佐 佐々木二郎 陸士三八期
立川陸軍航空廠柏分廠
分廠長

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